Dream09.夢の中の、夢2
「ふふふ。どう? 私のコレクションたちは」
サキュバスはそう言うと、噴水の上に浮遊したまま足を組んで笑った。
「何よコレ! 元に戻しなさいよ!」
反射的に柱に駆け寄っていた私は、石化したセシルドの身体に手を置いて声の限りに叫んだ。
石化してるのに……セシルドの身体から鼓動が伝わってくる。
「すぐにアタシが助けるからね!」
セシルドの冷たい石の肌に触れたまま、ボソリと呟いた。
「元に戻す方法教えてよ……なんか方法あるんでしょ?」
沸き上がる怒りはわずかに声を震わせたが、私は極力トーンを抑えて静かに尋ねた。
そうでもしないと、今すぐ飛びかかってしまいそうだったから。
なんでも力でモノを言わせる世の中にウンザリしていたのに、こういう場面に遭遇すると血が騒ぐ自分がいることを改めて思い知らされる。
だが話せばわかってくれる夢魔もたくさんいる、とクライスは言っていた。
たとえ夢魔でもむやみに傷付けるな、命を奪うな、と。
私だってできればそうしたい。
しかし、サキュバスの答えは私のささやかな願いを打ち砕くものだった。
「元に戻せ、なんてできない相談ね。これは私の大切なコレクションなのよ? 私の世界で狂おしいほどの甘い夢に溺れる事ができて幸せでしょうに……!」
ハハッと高らかに笑うサキュバスを見た瞬間に、私の中で何かの箍が外れた気がした。
握り締める短剣から底知れぬパワーが伝わって全身を駆け抜ける。
「何が甘い夢よ……! さっさと元に戻してここから出ていって!」
今にも振りかざしそうになる右手を抑えて、私はサキュバスに最後の警告を与えた。
一瞬の沈黙が、両者の緊張感を一層強める。
けれどすぐにサキュバスは口角をキュッと吊り上げて冷たく笑った。
「もはやここは私の領域よ。そのガキは生意気だけど黙っていれば可愛いし、ここも居心地良くて気に入ったわ。抜け殻になるまでとり憑いてやる」
「どうあっても……ここを出て行かないと言うの?」
「もちろんよ。せっかくあのウザったい魔術師から解放されたんだもの。私は自由なの――人間ごときが……指図するな!」
キンッと鼓膜を突き破りそうなサキュバスの叫び声に、耳を塞がずにはいられなかった。
「アンタ……邪魔よ。 消 し て あ げ る」
刹那、黒い水を噴き上げていた噴水が、意思を持った触手となって私に襲いかかってきた。
慌てて逃れようとしても重い足のせいで逃げられず、私はあっさり捕まって上空高く持ち上げられた。
全身に絡まる触手はじりじりと絞め付けを強めてくる。
「かはっ……」
全身を圧迫されて息ができない。
触手を切り落とそうとしても、がっちり身体を固められている上、過度の絞め付けで右手が痺れてしまった。
短剣が私の手を離れて、地面に虚しく転がった。
「あら、ダメじゃない? 武器を手放すなんて……ククク」
サキュバスは落ちた短剣を拾い上げるとふわりと上昇し、キラリと光る刃先を私の目の前に突き出した。
「か……えし……」
喋ろうものなら触手の絞め付けは一層強まる。
「ククク。そうねぇ……絞め殺そうかと思ったけど、この短剣で刺した方が楽しいかしら?」
頬にヒヤリと冷たい刀身をあてられる。
私はそれでもサキュバスを睨み続けたが、どう考えてもこれはヤバイ。
クライスとリュイは助けに来てはくれない。
セシルドは石化したまま。
そして私の唯一の頼みの綱はサキュバスの手中にある。
もはや触手は身に深く食い込み始め、痛みと息苦しさで意識を保つのも必死の状態だった。
このままでは……。
半ば諦めかけたその時。
私はあの声を思い出した。
――困った時はワシを呼べ。
神様!
私は意識を持ち直すと、心の中で何度も何度も神に向かって叫んだ。
けれど神のお爺ちゃんからの返答はなく、触手は容赦なく身に食い込んで、頬にあてられた短剣はサキュバスの手によって振り上げられた。
ミシッと骨の軋む音と、ヒュッと耳をかすめる音が同時に聞こえる。
頬が……熱い。
「ふふ……いい気味だこと」
サキュバスがその手に握り締める短剣の刃がわずかに赤く染まっていた。
それで初めて頬を切られたのだと確信する。
「女は嫌い。私一人で十分」
サキュバスはそう言って笑うと、先程よりも高く短剣を振り上げた。
――もうダメだ。
反射的に私は固く目を閉じていた。
その時。
その短剣は何のため?
“ブレイブ”なら、生き抜いてみろ。
魔具は所有者の心のままに。
そして我等はそなたの味方。
瞼の裏に浮かんだ四つの人影が、私に語りかけた。
瞬きひとつ。
たったこの瞬間に私は再び覚悟を決めた。
サキュバスは絶対私がなんとかする。
「”私の”短剣よ……魔具ならば、私の手に戻れ。悪夢を切り裂く力をもって、サキュバスの呪縛を解き放て」
自分の耳にも不確かな呟きが自然と唇から溢れた。
けれどそこには確かな意思が込められており、これは“ブレイブ”である私から“魔具”である短剣への初めての命令だった。
その途端、私の心に呼応するように、突如短剣はサキュバスの手からフッと姿を消した。
振り上げた腕の先から突然消えた短剣にサキュバスは動揺し、そこに一瞬の隙が生じる。
私はそこを見逃さなかった。
水の触手がわずかに弛み、足の自由が戻ったのを確認した私は、触手を絡ませたまま力一杯空を蹴り上げた。
それにより一層緩みをもった触手を今度は体全体で引きちぎる。
ブチッと鈍く音がしたかと思うと、触手は黒い水に戻って地上に降り注いだ。
黒い水は石化したセシルドの体を濡らし、それまで束縛されていた私の身体はあっけなく宙に投げ出された。
「ぎゃーーッ!」
たいした高さではないのかも知れなかったけど、見るだけと体感するのではかなり違う。
てか私高いところ苦手だったんだ!
ふと思い出した途端に私は恐怖に襲われて、無様に絶叫していた。
「ぎゃーー! クロ~~!」
とっさに叫んだのはお父さんでもお母さんでもなくて、犬の名前。
やや緊張感に欠けるアホ面がひどく懐かしい。
「そのまま死んでしまうがいいさ」
半ば冷静を取り戻したサキュバスが勝ち誇ったように笑った。
いや、ここでサキュバスの思惑通りになんてなるものか。
私はクロのアホ面をかき消すと、迫り来る地面を睨みつけた。