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橿原神宮から歩いて橿原神宮前駅まで戻ったら、東口のバス乗り場から奈良交通の「かめバス」に乗ります。
「かめバス」は明日香村観光の周遊バスで、主な観光スポットを走るバス。
平日は1時間に1本、土日祝と混雑期は30分に1本間隔で運行してます。(詳しくはかめバス時刻表へ)
かめバスもフリーきっぷのフリー区間のため、乗降自由。
しかもこの辺りになると雨が降ってきてしまったため、明日香村観光のもう一つの足であるレンタサイクルは難しいので、大人しくバスに頼ることにしました。

橿原神宮前駅からバスで15分ほど、飛鳥大仏バス停でバスを降りると、目の前に飛鳥大仏のある飛鳥寺があります。
ここはずっと来てみたかったところ。
ようやく来ることができました!
今はこじんまりとした小さなお寺ですが、創建当時はかなりの大きさを誇るお寺だったそう。
歴史の授業で必ず習う蘇我馬子が建てたお寺です。

外から見る限り、本堂も比較的コンパクトに見えるけど、この中に3m近い大きさの大仏様がいらっしゃいます。

本堂の前には創建当時の金堂の礎石が残されている。
創建当時は今と比べものにならないくらいに広い境内に、いくつもの建造物や塔もあったそうです。
今はとても静かな場所だけど、当時は政治の中心地だったんだもんな。
では、拝観料の支払いと御朱印を受付でお願いして、中に入ります。

で……でっかい!
想像よりも大きい!
中に入ると、お寺の方が飛鳥寺や飛鳥大仏の成り立ちや歴史を解説してくれました。
度重なる火災で一時は廃寺と化した飛鳥寺ですが、風雨に晒されながらもこの場所から1400年間一度も動いたことのない飛鳥大仏。
今の大仏様は修復などを経ているものの、それでもお顔の一部と右手の指が完成当時の物だと言われます。

確かに言われてみると、首から下は素材がちょっと違ったり、顔にも傷が見られる。
江戸時代に飛鳥寺が再建されるまで、荒れたお寺の中、風雨に晒されて何百年も放置されれば傷むのは当たり前だけど、それでも残る部分があるというのがまた大仏故に…と感じます。
しかしながら日本最古の大仏様とも言われる飛鳥大仏だけど、一度は国宝に指定されながらも、後に国宝指定を解かれ、今は重要文化財と言う位置にいるのはやはりその修復回数や、完成当時のパーツが少ない、と言う理由からのようです。
逆に、そんな環境下に置かれていても残っている方が凄いと思うんだが…国宝の値するでしょ、と私などは思うのですが…法律では違うみたいだね。
そういう理由もあるからなのか、この飛鳥大仏は写真OKでした。


右から見たお顔と、左から見たお顔では、印象が異なるように造られているんだそうです。
右側からの表情は厳しさを、左側からの表情は慈愛をそれぞれ感じるよね。
大陸百済からの渡来人仏師、止利仏師によって造られたと言う飛鳥大仏は、お顔もやっぱり日本系の顔ではなくて、でも百済(韓国)系の顔でもなくて、どこか中央アジアっぽい。
もしかしたらシルクロードを渡って、さらに大陸内部地域から来た人なのかもしれないね。
いやー、妄想と想像が捗る捗る。
また、この飛鳥大仏は完成当時は光背と、左右に文殊菩薩と普賢菩薩を従えた三尊像だったと考えられていて、その光背の一部も展示されています。
でも、それがすごく小さいの。
あの欠片とも言える大きさで出土して、それが大仏様の光背の一部(しかも場所まで特定されている)と判明するのはどうしてなんだろう、と不思議に思えるほどです。

正面から見るとコンパクトな本堂ながら、中庭もあります。
本堂を出たら、すぐ近くに蘇我入鹿首塚があるので行ってみました。

すぐ近く、というよりほぼ境内。
645年の乙巳の変(昔は大化の改新とも)で中大兄皇子と中臣鎌足に討ち取られた蘇我入鹿の首がここまで飛んできた、と言う言い伝えから、ここに首塚があるのだそう。
蘇我入鹿は蘇我馬子の孫に当たる人で、当時天皇よりも権勢を奮っていたとも言われていて、その蘇我一族は飛鳥寺のすぐそばにある甘樫丘に屋敷を構えていた…らしい。
甘樫丘は飛鳥寺よりも橿原神宮駅に近いところにあって、バス停もあるんだけど今回はスルーした。
その甘樫丘とは…。

そして中大兄皇子と中臣鎌足が最初に出会った場所というのが…。

首塚のすぐ後ろ、現在は田んぼのところで蹴鞠の会が催され、そこで出会って、やがて日本の歴史を変えていく大きな政変を起こす舞台となったのが明日香村。
いや、歴史ってめっちゃくちゃおもしろい!
じゃあ、その乙巳の変が起こったとされる宮廷はどこにあったの? という話なのですが、これもまたバスでひとつ先のところにあったそうなので、さっそく向かいたいと思います!
ちなみに2025年は巳年ですが、まさに645年と同じく乙巳、乙巳という暦の巳年です。
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