Dream8.夢の中の夢
――何が起きてももう驚くまい。
この世界は本当に不思議だと思う。
それがたとえ私たちの夢で成り立っている世界だとしても、だ。
独立したひとつの世界として存在するラルファールと、私の本当の世界を比べる事からして間違ってるのかもしれないけど、なにもかもがまるで違うのだ。
あの現実世界は文化文明技術が進んでいるとは言え、今の最高技術をもってしても、ヒトを他人の夢の中に転送することなどできまい。
――私は今、セシルドの夢の中にいる。
暗くてもやもやして、足が妙に重たい。
何かがまとわりつくような錯覚を覚えて、時おり手で振り払ってしまう。
一歩踏み出すのもなかなか難儀で、底知れぬ恐怖が私を襲った。
「これ……ホントに夢の中なのかな?」
周囲を見渡しながら、私はひとり呟いた。不本意だけど、声は少し震えている。
ねえ、セシルド。
アンタの夢は湿っぽいよ。
夢魔にとり憑かれてるとはいえ、空気までこんなに重いなんて……酸欠になりそうだ。
悔しい事に……なんだか目頭が熱くなる。
暗い暗い場所でたったひとりでいることが、こんなに心細いなんて知らなかった。
それに、気に入らないとは言ってもセシルドの身が案じられるのも事実で、私は自然と焦っていた。
「とにかくサキュバスを見つけなきゃ!」
キュッと唇を噛み締めて目元を指で拭うと、とにかくあてがあるわけでもないから適当に歩いてみた。
足が鉛のように重い。
例えてみるなら水の中を歩いているような感じかな?
「ハァ、ハァ……疲れる」
ほんのわずかしか歩いていないのにもう息が上がり始めて、私は途方に暮れた。
「どうしよう……身動きとれないじゃん」
ヘタリとその場に座り込んで、空を仰いだ。
黒い霧のようなものが空に渦巻いていた。
その渦巻きを見ていると、こちらの気分も滅入ってしまいそうになる。
そう言えば転送直前にクライスが言っていた。
――夢魔は人間の負の部分を好んで巣食う。
心の隙間に入り込んで、負の感情を膨らませていくのだ、と。
肉体についた傷は時間が経てばそれなりに消えはしても、心についた傷は時に人を狂わせ破壊する。
身をえぐられるよりも心をえぐられる方が残酷な場合も少なくない。
夢魔は肉体に傷をつけない代わりに心にとり憑いて、繰り返し見せる悪夢で衰弱させる。
だから時として、夢魔にとり憑かれるという事は命取りになりかねないと言うのだ。
私は慌てて首を激しく振ると、重たい体に力を込めて立ち上がった。
どう考えても今の私の心は隙間だらけだ。
あの黒い霧に飲み込まれないようにしなければ……そう思って自分に喝を入れた。
「セシルドに恩着せてやるんだった」
何ともイヤな気合いの入れ方ではあるが、自分で自分を励ますにはこれが一番だろう。
成功の暁には“金魚”じゃなくて“キラ様”と呼ばせてやる。そう思った途端に私の頬が少し緩んだ。
その後私はしばらく歩き続けたが、セシルドの姿もサキュバスの姿も見当たらなくて、次第に同じ所をグルグルさまよっているような気がしてならなくなった。
サキュバスの手の内に嵌ってしまったのだろうか。
夢の中ではサキュバスの方が圧倒的に有利であることは容易に想像がつくし。
「そうだ!」
私は再び立ち止まると、腰にくくりつけた革袋から愛用のダガーを取り出した。
身に染み付いた習性と言うべきか、襲われる可能性があるところでは短剣を手に取るだけで少し落ち着く。
それにここは夢魔のテリトリー。
どこから現れるか見当もつかないから、あらかじめ短剣を持っていた方が安心だろう。
……と無理矢理自分を納得させた。
「……それにしても殺風景な夢だなぁ」
先ほどから思っていたが、この夢には景色がない。
黒い霧がどんより漂っているだけで、何もないのだ。
足元に一輪だけ咲いていた花も、手を触れれば音もなく砕け散ってしまった。
欠片が黒の風に乗って流れていく。
私の爪先は自然と花の欠片を追うように動き出していた。
右手に握り締めた短剣が、私をそちらに誘っているように感じたのだ。
――行け、と。
砕けた花の欠片を追って、重い足を無理矢理持ち上げながら、何もない空間を水を掻き分けるように進んだ。
相変わらず歩は遅いのに、はおったケープは軽やかに風になびく。
どうやら私の身体だけに見えない負荷がかかっているみたいだ。
そう言えば、こんな夢をみたことあったな。
走りたいのに走れない、とか……。
大抵夢の中で誰かに追われてたりする時に見る事が多いそれは、立派な悪夢だ。
――立派な……悪夢……。
「そう、これはただの余興。アナタへのプレゼント。――侵入者さん」
悪夢の二文字が頭をよぎった瞬間、私は素早く振り返った。
そして一変した景色に目を見開く。
たった今の今まで何もなかったはずの空間に、何本もの柱に囲まれた噴水付きの泉が現れていたのだ。
黒い水を噴き上げる噴水は異様極まりない。
その少し離れた上空に、妖しく笑う女がいた。
間違いない――サキュバスだ。
「小生意気なクソガキを助けに来たのかしら? アナタの仲間もなかなかスゴい手使ってくるじゃない」
軽く舌舐めずりをして、サキュバスはふふふと笑った。
「けれど私の領域に女がいるだなんて……目障りなのよッ!」
突然、カッと開かれたサキュバスの眼球から一筋の閃光が放たれ、それをまともに受けた私は簡単に後ろへ吹き飛ばされた。
一瞬の出来事で、受け身をとる暇もなく地面に叩き付けられる。
「いっ……」
呻こうにも声が出なかった。
突然の遠距離攻撃なんて反則だと抗議したかったが、夢魔相手にそんな持論は通じないだろう。
それでも私は苦悶の表情でサキュバスを睨みつけた。
そんな私を見下ろして、サキュバスは楽しそうに笑っている。
「セシルドはどこよ……」
フラフラとよろめきながら立ち上がった私は、微笑むサキュバスに向けて短剣を掲げて声を振り絞った。
「あら、脅しのつもりかしら? ホホホ……まあ良いわ。そこの柱をよく見てご覧なさい」
黒い噴水の上に降り立ったサキュバスは、柱のひとつを顎で指し示した。
その様子を一瞥した私はすぐに視線を柱のひとつに移して、ジッと目を凝らした。
柱とサキュバスに注意を払いながら、私は短剣を構えて一歩、また一歩と前に進む。
不自然な形をなしている柱に、異様な戦慄を覚えながら。
「ふふふ……」
楽しそうに微笑むサキュバスとは対照的に、私は近づけば近づくほどに血の気がひく感覚に襲われた。
近付いて分かったのだ。
「セシルドッ……」
異様なはずだ。
不自然な姿勢のまま石化したセシルドの身体が、柱に絡み付いていたのだ。
いやそれだけではなく、黒い噴水を取り巻く柱のどれからも、人らしき石像が絡み付いている。
そのいくつかは、村で夢魔にとり憑かれていた男たちによく似ていた。