【残007話】麗しの案内人(2)

 出立の時が来た。

 エルフェリスとゲイル司祭は一度だけ顔を見合わせると、互いに大きく頷いて、一歩一歩を確かめるようにゆっくりと客車へ足を踏み入れた。

 車内にはお互いの顔が分かる程度の蠟燭ろうそくが左右に灯されており、見た目よりも広々とした空間が広がっていて窮屈きゅうくつさは感じなかった。
 
 漆黒の外見とは打って変わって、内装は比較的落ち着いた色でまとめられている。壁はベージュの下地に複雑な幾何学きかがく模様が白で描かれ、座席は藍色の上質なベルベッドで仕上げられており、座り心地はこの上なく良さそうだった。

 馬車での長旅を経験したことのある人間に一体何が憂鬱ゆううつかと問えば、間違いなく半数以上の者が上げるであろう問題がこの座り心地だ。路面の状態がそのままダイレクトに伝わるだけに、狭い室内と固い座席に苦しむ旅人は思いのほか多い。

 だが上質な馬車と言うのはいつの時代も最高級品であり、旅人などが気軽に乗れるような代物しろものではなかった。そしてそれは辺境の地で暮らす神官たちにとってもまた同じであった。

 見たこともないような豪華さにあっけにとられながらも、先に中に入ったエルフェリスは司祭に促され、おそるおそる一番奥に腰掛けた。その隣に司祭が。

 リーディアは二人が乗り込むのを待って自らも客車内に入ると、ゲイル司祭の向かい、扉のすぐ隣に腰を下ろした。そして内側からしっかりと鍵を掛ける。

 それを合図としたように、馬のいななきと共に一度だけ車体も大きくグラっと揺れると、異なる二つの種族を乗せた漆黒の馬車は、暗黒の夜の中をゆっくりと動き出した。

「シードの居城まではどれくらいかかるの?」

 リーディアが落ち着くのを待って、エルフェリスは待ってましたとばかりに珍しく自分から問いかけた。

 ハイブリッドといえども、こんなにも間近でじっくりとヴァンパイアを見たのは初めてで、怖くないと豪語していたエルフェリスとて無意識に警戒していた。いつもよりも硬い声色が、それを如実にょじつに表している。

 だが未知の世界への旅立ちに、黙って行儀よく座っているだけなんてつまらない。どうせならこのハイブリッドのリーディアと、何か話でもできればと考えての行動だった。

 一方のリーディアはと言うと、いきなり尋ねられたことに対して少々面食らった顔をしてはいたものの、すぐに柔らかく微笑んでみせた。そして少し考えた素振りを見せた後、その形の良い唇をそっと開いた。

「夜通し馬を走らせたとしても、その次の晩に着けるかどうか……と言ったところですわね」
「え? じゃあ朝が来たらどうするの? 昼間は? 御者の人、大丈夫なの?」
「まぁ、ほほほ。私たちの身を案じて下さるのですね。でも大丈夫。途中からはシードたちの日中移動用に作られた秘密の暗道あんどうがありますの。そこなら私たちも足留めをされることなく動くことができます。何度夜明けを迎えようと、最短時間で辿り着けるはずですわ」

 リーディアはそう言うと、にっこり微笑んで軽く頭を下げた。それからおもむろに車窓へと視線を走らせると、そのままゆっくりと息を吐く。

 流れていく情景は、どこもかしこも黒に染まっていた。

「……この辺りは、随分と景色が良いのでしょうね」

 自然と口に出たようなその言葉も表情も、どこか遠くを見るようだった。彼女のその呟きに、つられて窓の外を漂っていたエルフェリスの視線がリーディアへと固定される。ふいに、エルフェリスの心が震えた。

 どうしてだろう。なぜか彼女の横顔に、姉エリーゼが重なる。美しくて、儚くて、幻のように消えてしまった姉が。

「私はもう、太陽の美しさを忘れてしまいましたわ……」

 赤く染まった瞳と共に馬車も大きく揺れて、エルフェリスとゲイル司祭の耳には彼女が囁いたその言葉が良く聞こえなかった。

 けれどそれは、彼女がかつて人間であった事を暗に指し示していたのである。

 それからしばらく一行は、黙ったまま流れていく景色を眺めていた。

 リーディアの言っていた暗道とやらに入っても、ところどころ景色を望める箇所があり、エルフェリスは一人車窓のカーテンから顔を出して、初めて見るヴァンパイアの世界に興奮を隠せないでいた。

 ヴァンパイアの領域自体は、あまり人間の世界と変わりはしない印象で、住む家も街の構造も、ありふれた一般的なそれと変わらなかった。それがヴァンパイアの街なのだと知らなければ、エルフェリスもきっと普通に降り立ってしまうだろう。それほどに違和感の欠片もない景色が広がっていた。

 違いといえば、日の高い時間帯には誰もいないといったことくらいだろうか。それだけでもエルフェリスら人間からすれば異様といえば異様なのだが、見ている分には気にならない程度だ。

 だが、一つだけ。明らかに人間の世界とは異なる光景が、エルフェリスの視界を何度もさえぎっていった。

 それは、ヴァンパイアに狩られたであろう人間たちの死体であった。

 ヴァンパイアは日の光に弱い。だから日中は当然表には出て来ず、その習性を利用して、陽の出ている間にヴァンパイアの領域に足を踏み入れる人間も少なくはなかった。日が完全に沈むまでにその領域外に出れば良いのだと過信するのである。だが、ほんのわずかな判断ミスのために狩られる人間も同じように少なくはなかった。

 道中見かけたむくろは恐らく、夜になっても領域を出ることができなかった者たちの抜け殻なのだろう。エリーゼもすでに、どこかであのような姿になっているかもしれない。

 丸腰のままヴァンパイアの中に飛び込んで行った愚かな姉。
 
生きている確率の方がどう考えても少ないことはエルフェリスにも分かっていた。けれど、もしそれが事実となって目の前に現れた時、自分は同じように目を逸らしてしまうのだろうか。それとも限りなく冷静にそれを受け止めることができるのだろうか。

 胸が、苦しい。

「あら? エルフェリス様、あまり顔色がよろしくないようですが……」

 隣で眠る司祭を起こさないように声を潜めて、リーディアが青ざめるエルフェリスの顔を覗き込んだ。今はまだ陽のある時分なのだろうか、彼女の両目は綺麗なオリーブ色に輝いていた。

「……大丈夫。ちょっと考え事をしていただけです」
「そうですか。……ですがお疲れでしょうし、城に着きましたら早急にお部屋でお休みになって下さいませ。これから慣れない環境にさらされるのですから、くれぐれも体調を崩されませんように……」
「ありがとう」

 心配そうに自分を見つめるハイブリッドヴァンパイアの女に対して、エルフェリスはここで初めての笑顔を見せた。と同時に、そのままゆっくりと俯いて目を伏せる。

 そしてしばらく考えていた。私は人間なのに、と。対立している存在なのに、リーディアはなぜ自分のことを心配してくれるのだろう。初めて会った、任務上で関わるだけの人間相手なのに、どうしてこんなにも……。

 エリーゼのことを考えていたからだろうか。遠い記憶の彼方に押しやったエリーゼの優しさをふと思い出してしまった。

 エリーゼの、優しさを……。

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