Dream19.動き出す黒の月
「消えろ、そして出よ。我の声に従え。黒の光よ」
夜空に手が伸ばされる。
「やめろ……やめろやめろやめろッ!」
冷え切った鉄格子を揺さぶる音が耳に痛いほど響き渡る。
「全てお前のお陰だぞ? もう手遅れだ。……ヒヒ……ヒヒヒヒ」
「あ……あ……! ……シ……様……」
ガタガタ震えながら、少年は消え入りそうな声で誰かの名を呟く。
一瞬月が、消えた。
「クロウ様、調子はいかがですの?」
男の背後から近付いて来たのは、随分と浅黒い肌をした赤髪の女だった。
豊満な肉体を隠そうとも思わないのか、肌の大部分が露出している。
「あら」
自分に一瞥すら加えてくれない男に痺れを切らし、女は自ら男の前に回り込んだ。
そして思わず溜め息を漏らす。
「クロウ様……! ようやく!」
わずかばかりの驚愕と、それを上回る喜びが女の中を駆け上がっていった。
先ほど目通りした時とは比べ物にならないほど明らかに、男の外見が若返っていたからだ。
しわがれた顔も身体も声も、全てがほんの少しの間に大きく様変わりしている。
「たったあれだけのことでここまで若返るとは……。神のヤツめ、余程弱っているに違いないな」
自分の身体を確かめるように見下ろして、男、クロウは高らかに笑うと、くるりと向きを変えて、薄暗い鉄格子の中の少年に話し掛けた。
「どうだ? この変化。素晴らしいと思わぬか?」
「どこが……! 月を元に戻せッ!」
「それはできぬな。それに月ならあるではないか」
クロウの指差す先には、確かに何も変わらぬ月が輝いている。
だが……。
「あんなのはまやかしだ! あれは月じゃ……ッ!」
そこまで言って、少年の声は途絶える。
その身は大きく口を開けたまま、物言わぬ石と化していた。
「命あるだけありがたいと思え。そこから黙って見ているがいいさ」
勝ち誇るように笑うクロウの声に、女の高笑いが重なる。
「本当に。神さえいなくなれば用済みですものね。このガキが戻らない限りは神とて完全には復活できないでしょう」
「或いは“ヤツ”が戻らなければ……な」
その事を憂いているのか、クロウはやや厳しい目つきで左手を顎にかけると、むうと唸る。
女はそんな男を安心させるかのように、自らの腕を男の肩に絡ませた。
「あの男はとうの昔に神を捨てたのです。今更我々が恐れる程の存在ではありませんわ」
「……そう思うか? ディア」
「ええ」
クロウの低くて甘い声に酔い入りながら、ディアと呼ばれた女が目を閉じる。
男はそんな女をしばらく見つめた後、鼻を鳴らして女を突き放した。
「だからお前はあっさり封印されてしまうのさ」
冷たく蔑むような瞳に、ディアの顔色がさっと変わる。
「……ッ! それは……」
ディアの瞳が動揺で揺らめく。
脳裏に浮かぶのは、神とその後ろに控える”あの男”。
思い出すのも忌々しいが、あの顔はどれだけの月日を重ねようが忘れはしないだろう。
「まぁいいさ。私の腹心はそなた一人になってしまった。頼りにしようではないか」
「はい。ありがとうございます」
恭しく頭を下げながらも、ディアは拳を堅く握り締めた。
「それにしても神が呼び寄せたキラという小娘、なかなか興味をそそる娘だな」
「は……?」
クロウがふと口にした言葉に、ディアの顔が曇る。
「初めは目障りな小バエとしか思わなかったが、考えようによっては……くくッ」
不均衡の天秤の隣に置かれた、人間の頭大の黒水晶に手をかざす。
ゆっくりと映し出された少女の姿に、クロウの黒暗の瞳が妖しく輝いた。