✚残052話 断罪の日(6)✚
エルフェリスはそれを慎重に聞き取っていく。
「あの男とは……庭園茶会の日に城の外で出会ったの。黒いマントで身を包んだ、恐ろしいくらいに美しい男……。その後はまるで魔法に掛けられたようにロイズ様の名で手紙を書き、それを適当なハイブリッドに持たせ、あんたたちに届けた。けれどそれからの事はすべてあの男がやったのよ! 私は知らなかった……こんなことになっているだなんて……知らなかった……。それなのにこんな仕打ち……酷いわ……」
冷え切った床に突っ伏して泣き叫ぶカルディナ。その姿を、エルフェリスはただ黙って見下ろすことしかできなかった。
ロイズハルトへの激しい愛が、彼女を盲目にさせているとしか思えなかった。いや、もはや愛ではなく執着か。歪んだ愛にカルディナは知らず知らずのうちに取り込まれてしまったのだ。周りが見えなくなるほどに……。
――ねぇ、エリーゼ。
あなたもそうだったの?
なぜかふと、明るく笑う姉の顔がエルフェリスの脳裏をよぎった。
けれど今、目の前にいるのは姉ではない。愛という名の魍魎に取り憑かれた哀れな女だ。
「その男の特徴を教えて。どんな顔だった? どんな背格好だった?」
男を突き止めなければ、この事件は終わらない。
そう思ったエルフェリスは再びカルディナに向けて、追及の手を伸ばしていった。
だがエルフェリスの問い掛けにも、カルディナは泣き崩れたまま首を振るのみだった。何もわからない、何も知らないのだと繰り返しながら……。
それでもエルフェリスはしばらく同じ質問を何度も何度も投げ掛ける。何も知らないわけがない。絶対に何か一つくらい手掛りとなるものはあるはずだ、と。
ここで引き下がるわけにはいかなかった。見逃すには彼女に残された時間が少なすぎるのだと自分に言い聞かせながら。
男の姿を見たかもしれないアルーンもイクティも、あの夜すでに息絶えた。あの事件に加担したハイブリッドも、すべてあの場で殺されたと聞く。死霊使いの男に関する手掛りは、もうこのカルディナ以外に残されていないのだ。
彼女を失ってしまったら、すべての謎は永遠に闇に葬り去られてしまう。
「カルディナお願い! 何でもいいから思い出して! 髪型は? せめて目の色とかは見たんでしょう?」
地べたに座り込むカルディナを覗き込んで、なかば怒鳴り付けるように声を張り上げた。
その問い掛けに、カルディナの顔が少しだけ上がる。
「……目は確か……黒だったわ。光の無い漆黒……。でもそれ以外は本当に何もわからないの! 私は悪くない……私は悪くないのに……! ロイズ様ぁああ」
耳を切り裂かれるほどの嘆きに、エルフェリスは思わず天を仰いで目を塞いだ。再び冷たい石の床に伏して、自らの境遇を哀れむカルディナを見ていられない。
自分が招いた結末なのに、何と都合の良い言い分なのだろうと憤りを隠せない反面、なぜか彼女を救ってやりたいと思う気持ちが心の奥底で渦巻いていることに気付いてしまった。
容赦はしないと、あれほど決めたのに。
私はまだまだ甘い。
「……わかった……」
そう言ったエルフェリスの声は、果たしてカルディナに届いたのだろうか。泣きじゃくるカルディナはひたすらにロイズハルトの名を口に出し、そして自分は悪くないのだと繰り返すのみだった。
黒い、漆黒の眼を持つ男。ただそれだけの手掛りでも、十分なのかもしれない。こうなってはもう、カルディナからこれ以上を聞き出すのは難しいだろう。
心の底から大きな溜め息が出た。
それからゆっくりと立ち上がる。
足元で崩れたままのカルディナを横目で見下ろして、エルフェリスはくるりを背を向けた。
「懺悔したくなったら私を呼んで。いつでも……いくらでも救ってあげる。けど……その気が無いのなら、私は絶対にあんたを赦さない」
何があろうとも最期は救いの手を差し伸べるのが聖職者だというのなら、自分はやはり未熟なのかもしれない。でも、それでもいい。後悔も罪の意識も無い魂は、救えないから。
鉄格子の向こうで泣き続けるカルディナを尻目に、エルフェリスはただそれだけを告げると、地上へと繋がる唯一の回廊を、松明を手に足早に進んだ。
悔しかった。自分の命を狙われたことが、ではない。たとえ間接的にでもいくつもの命を奪ったのは紛れもない事実なのに、彼女はそれを罪だとは思っていなかった。また、それを罪であるのだと認識させることすらもできなかった。それが無性に悔しかった。
爪が食い込むほどに拳と松明を握り締める。
どうして、人の心は歪んでしまうのだろう。
生まれ落ちた時は皆、その目に、その心に、曇りのない色を湛えているというのに。
「……どうして?」
エルフェリスの零した疑問に答える者はいない。
それでもエルフェリスは何度も何度も、答えの出ない疑問を繰り返し繰り返し呟いた。
長い階段を上り切ると、地上はもう茜色に包まれて、やがて来るであろう闇の訪れを待ち焦がれているようだった。今夜はきっと満天の星空を仰げるだろう。
そんな空を見上げるエルフェリスは、その心がなおいっそう複雑な色に染まっていくのを感じた。
そんな時。
「エル!」
ふと誰かに名前を呼ばれて、はっと顔を上げた。
とっさに視線を走らせると、少し先の城前庭園の入り口にシードの三人が立っているのが見えた。
その姿に、張り詰め通しだった顔の緊張がわずかに緩むのを感じる。
どうして?
どうして?
頭では何度も同じ疑問がぐるぐると回っている。
けれどそんな自分を見せたくなくて、エルフェリスは彼らに近づくほどに心を殺して、――笑っていた。
「カルディナのところに行ったんだな?」
三人の元に近付くなり、そう問い掛けてきたのはロイズハルトだった。その顔をちらりと横目で確認する。
わずかに眉間に寄った皺が、密かにエルフェリスの心を揺さぶった。
「……うん。行ったよ」
「何か聞き出せたのか?」
「……漆黒の瞳の男。ただそれだけだよ……ごめんね、役に立たなくて……」
ロイズハルトの問い掛けに、エルフェリスは短くそれだけを答えると、三人の脇をすり抜けて、俯いたまま自室への道を辿った。
取り繕った顔が壊れそうだった。早くこの場から去ってしまいたかった。
「エル、ありがとう。後は俺たちが何とかする」
すれ違いざま、そう声を掛けられたが、今のエルフェリスには振り返って頷くだけの余裕がなかった。
久々に動かした身体は悲鳴を上げて崩れ落ちそう。そして心も崩れ落ちそうだった。けれどそれを三人には悟られたくないと、必死で平静を装った。
疲れた。
自室に戻るとすぐさまベッドに沈んだ。身体を投げ出して、押し寄せる疲労感にじっと耐える。
眠りに堕ちることはなかった。虚ろに目を見開いたまま、ずっと一点を見つめる。
その先に映るのは、華やかに笑うカルディナの残像のみだった。
それから数日後、誰にも看取られることなく、カルディナはひっそりとその生涯を終えた。
華々しく活気付く者たちの陰に隠すように運び出されたカルディナの遺体は、以前の姿とは比べ物にならないほど痩せ衰え、見る影もなかった。
見送る者は誰もいない。
「エルフェリス様、城内にお戻り下さいませ。ここから先は……」
黒いマントに身を包んだハイブリッドたちが、カルディナの身体をどこかへと運んで行く。その後を無意識に追っていたが、やがて城門の前に辿り着くと、一人の男が立ち止まりエルフェリスにそう告げた。
そしてすぐに踵を返すと、その男もまた他の者に付いて城門を越えて行く。
見送る者は誰もいない。
私一人。
「……さようなら……」
ふと言葉が漏れた。そして小さく祈りの言葉を呟く。
それくらいしか、自分にはできないから。
せめて彼女がいつか、あの罪を罪として受け止めてくれることを願って……。
「神よ……どうか……」
エルフェリスは祈った。あの魂を救って下さい、と。
私にはできなかったから。
黒の葬列を見送りながら、エルフェリスはただ、それだけを願った。
死霊使いの男の詳細は結局分からずじまいだったが、今後もその存在を念頭に置いていっそうの注意を払うよう、ロイズハルトから忠告があった。
それからしばらくして。
日々の平穏が戻った頃、ルイという男が帰城するという知らせが城内を駆け巡っていった。
第三夜 fin.