【残000話】はじまりの雨

 侵食。
 侵食。
 音も無く滑り込み、跡形も無く砕け散る。
 この身は果てても奥底に渦巻くは黒い血の契約。
 過去は全てモノクロームの世界に消え果てて。
 未来は全て暗闇に覆い尽くされる。
 いつの日か、あの月のように再生を。
 冷たく凍りついたこの指先に一握りの光を灯して。
 それがただの儚き夢であろうとも――。

 

 

 雨脚は、いっそう激しさを増していくようだった。掘っ立て小屋のようなこのあばら屋では、ところどころの雨漏りもしかたがない。

 突然の雨から逃れるために駆け込んだだけだ。この気まぐれな天気さえ落ち着いたら、さっさと出て行くだけのこと。

 そう自分に言い聞かせて、灰色に染まる世界をどこか恨めし気に眺めていた。

 それなのに、先ほどから窓に打ち付ける雨に混じって稲妻が見え隠れするようになった。

 今夜は大荒れになりそうだ。そう思えば思うほど、心の底からとめどなく込み上げてくる溜め息を飲み込むことはできなかった。

 一体どうなっているのだろう。ほんの一時前までは雲ひとつなかったはずなのに、今ではこの有様だ。

「あーあ、ついてない……日没までには村に帰りたかったのに」

 体中の酸素を吐き尽すかのような、一際大きい溜め息とともに肩を落とす。あまりの晴天に浮かれて、つい遠出をしてしまったことを今さら悔やんでももう遅い。

「洗えば元の色に戻るかしら」

 ふいに足元に目をやれば、泥まみれになったお気に入りのブーツ。鮮やかな赤い色が無残にくすんでしまっている。

「どうしよう……」

 薄暗く、かび臭い小屋の中から、不気味に暗くなり始めた外の景色を呆然と眺めた。

 不規則に響き渡る轟音と光が、不安そうに両手を胸の前で握り締める“彼女”の横顔を照らし出す。その胸元で煌めいているはずの十字のクリスタルは、すっかり輝きを失っていた。

「どうしよう……もうすぐ夜、よね……」

 こんな天気の急変さえなければ、余裕を持って村まで帰れるはずだった。こんな小屋の中で足止めをくらうこともなく、日常的な夜を迎えることができたはずだったのだ。

 それなのに、どうしてこんなことに……。

 自身の軽率な行動に対する後悔と、運の無さに嘆くことしばし、とにもかくにもこのまま夜を迎えるのはまずいと思い直すと、懐から使い古した地図を取り出して、冷たく軋む床の上にやや乱暴に広げた。おそらく今いるであろう場所を指先で辿りながら、瞳はせわしなく地図と窓の外を交互に彷徨う。
 
 彼女の心の奥から、底知れぬ恐怖が大きな波となって襲いかかろうとしていた。

 確かここはまだ、“彼ら”の領域でもあったはずだ。

 夜に、“彼ら”の領域で、“彼ら”に出くわしてしまったら……?

 にわかに足元がひやりと冷え始める。

「どうしよう……私、どうしたら……」

 考えれば考えるほど自分の愚かさに耐えきれず、思わず両手で顔を覆った。

「ああ……神よ……」

 助けを乞うように呟いた言葉は激しい轟音に飲み込まれ、掻き消されてしまった。

 それでも呟かずにはいられない。何度も、何度も。

 絶望の中にあるからこそ、心の拠り所が欲しかった。

 この状況下では、自分の身が危ういことは誰の目から見ても明らかだ。意を決して村への道を急いだとしても、無事に辿り着ける可能性は五分五分といったところだろう。それほどに、今いるこの場所は彼女にとっては死地に近い。

 そんな彼女の不安をさらに煽るかのように、激しい稲妻が小屋を不規則に照らし出す。そしてまたわずかな静寂が訪れたかと思えば、稲妻。

 静寂。
 稲妻。

 その時。

 何かがカタッと動く音が響いた。

 空耳かとも思ったが、微かな音にも敏感になっていた彼女は、慌てて顔を起こすと辺りを小さく見回した。無意識に胸の十字架をきつく握りしめる。

「……だれ……?」

 震える声を振り絞り、暗くなり始めた室内へと目を凝らすと、小屋の奥の方で何かがうごめいたように見えた。

「……っ!」

 身体の震えがいっそう強まる中、それは音もなくスッと立ち上がると、軽やかなステップでも踏むかのように一瞬で彼女の前に姿を現した。

「ひっ……!」

 彼女の顔に明らかな恐怖が浮かぶ。だがしかし……。

「すみません、驚かせてしまいましたね」

 そんな彼女の前に歩み出て、ふわっと優雅に微笑むそれは、目も眩むような長身の美青年であった。

 少し着崩した白いシャツに、細身の黒のスラックス。わずかな動作にもさらりと流れるプラチナの髪は、夜のベールに包まれ始めた世界の中にあっても柔らかな輝きを放っている。

 まるで夜を支配する月のように。

「あの……」

 突然のことに息を呑んだまま先を続けられない彼女の言葉を制するように、目の前の青年は微笑んだ。そしておもむろにこう告げる。

「ここは“私たち”の領域です。出て行かれるのなら、早い方が良い」
「え?」

 突如、彼女の顔からは血の気がさっと失せていった。

 まさかこの青年は……!

 一歩二歩とおぼつかない足取りで後ろへと下がった彼女であったが、がくがく震える足はなかなか言うことを聞いてはくれなかった。

 その様子を見て、微笑んだままの青年は少し困ったように窓の方へと視線を泳がせた。それから細くて白い指先でそちらを示す。

「ほら、ご覧なさい。さっそく貴女を求めての来客ですよ? まったく……“ハイブリッド”は良く鼻が利く」

 彼女が恐る恐る青年の示した方に目をやると、一人の男が窓に張り付いて彼女を舐め回すように見つめていた。

 その片目は異常なほど真っ赤に染まっている。

「きゃっ!」

 その姿に思わず悲鳴を上げて、彼女は固く身を竦めた。

 途端、外の男はにやりと嫌な笑みを浮かべ、握り締めた両の拳を窓ガラスに激しく叩き付け始めた。中に入ってくるつもりなのだ。薄くて古いガラスでは、ほんの少しの衝撃でもすぐに破られてしまう。

 彼女は慌てて小屋の奥へと逃げ込んだが、青年は静かに佇んだまま、ただその様子をやたらと冷めた目で傍観していた。

 やがてすぐ、大きな破裂音とともにガラスは突き破られ、赤目の男が小屋に侵入してきた。不気味に笑ったまま舌なめずりをし、そして彼女の逃げ込んだ方へと視線を向ける。

 そしてあっという間に彼女の目の前まで移動すると、次の瞬間には恐怖でおののく彼女の細い左手首をつかんでいた。

「ひっ!」

 完全に顔色を失った彼女は言葉を紡ぐこともできず、にやりと笑う男の顔を戦慄の眼差しで見つめることしかできなかった。もはや身体は制御できないほどに震えてしまっている。逃げることなど到底できそうにない。

 完全に腰が抜けてしまった彼女は、スローモーションのようにへなりとその場へ崩れ落ちた。

 もうダメだ……!

 そう思って硬く目を閉じた瞬間、赤目の男が突然悲鳴を上げた。

 同時に彼女はつかまれた左手首に耐え難い痛みを感じて、思わず目を見開いた。

 目の前に、赤目の男の足がぶら下がっていた。

「え……?」

 息を呑んだまま恐る恐る視線を上げていくと、先ほどの青年が男の首を片手のみで締め上げていた。男の太い首に青年の細い指が喰い込んで、次第に男の顔色が青く変色し始める。

 自分の腕に走り続ける痛みなど忘れてしまったかのように、彼女はその光景をどこか漠然と見つめていた。そして、冷たく歪んでもなお美しい青年の表情かおに目を奪われていた。

「“シード”を前にして随分と不躾ぶしつけな」

 その口元から零れる優雅な笑みとは裏腹に、青年の白い指は男の首をギリギリと締め付けていく。呼吸すらままならない赤目の男は、なんとか青年の戒めから逃れようと身を捩り暴れたが、青年はその抵抗すら楽しむように微笑んでいた。

 男の足が虚しく宙を蹴る。何度も何度も激しく。

 が、やがてしばらくすると全ての力を使い果たしたのか、男の身体はわずかな痙攣の後だらりと弛緩した。その光景を、青年は酷く冷たい瞳で見つめていたが、やがて短く息を一つ吐くと、呟く。

「もうお休みですか。“ハイブリッド”と言えど……脆いものだ」

 くくっと笑い、青年は軽々と男の身体を荒れた床へ投げ捨てた。

 無造作に横たわった男の顔からは、すでに生の息吹を感じることはできなかった。ただ真っ赤に染まった片目をいっぱいに開いたまま、己の息の根を止めたであろう人物を睨み付けるような表情で事切れている。

 そのような光景を目の当たりにした彼女は、男の手形がはっきり残った左手首と、今さっきまでそれをきつく捉えていたはずの男の顔を交互に見つめながら、蒼白の表情でガクガクと震えていた。

「……醜い跡が残ってしまいましたね」

 そんな彼女の前に片膝をついた青年は、なだめるように彼女の左手を取ると、冷え切ってしまったその手を包み込むように自らの手を重ねた。ひやりと冷たい、白い手で。

「あの……」
「たとえ昼間は安全な場所だとしても、夜になればこんなのはザラです。……少し、無用心過ぎましたね」
「……ごめんなさい……」
「私に謝られても。とにかく一刻も早くここを出ることです。……送って差し上げましょう」

 ほう、と吐息を漏らして、青年は彼女に「立てますか?」と尋ねた。

 青年の手を借りて彼女は何度も立ち上がろうと足に力を込めてみたが、先ほどの恐怖がまだ尾を引いているのか震える足は言うことを聞かなかった。立てるかと思いきや、すぐにぺたりと尻もちをついてしまう。

 そんなことを何度か繰り返した後。

「やむを得ません。失礼」

 言うや否や、青年は彼女の腰と膝の裏にすっと手を伸ばすと、ふわりと彼女の身体を持ち上げた。突然視界がくるりと回って、彼女が戸惑ったように声を上げる。

「あ、あの……」
「しっかり掴まっていて下さい。今日は特別な世界を見せてあげましょう」

 火が出そうなほど顔を赤らめる彼女をよそに、青年は涼やかな声でそう言うと、荒れ果てた暗い廃屋のドアを開け放ち、未だ激しく降り注ぐ雷雨の中を、彼女を抱いたまま踏み出して行った。

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