闇が、すぐそこまで迫っていた。
音は無い。
エルフェリスは今、逃げていた。全力で。
エルフェリスが走り抜けた庭園の薔薇たちが、笑うようにその身を揺らす。
確実に追い詰められていた。
逃げても逃げても闇は濃紺の夜空を滑るように這い寄ってくる。
闇が手を伸ばす。
驚愕の瞳で振り返るエルフェリスを、闇が、飛び越える。影すらも逃さないよう、闇が両腕を広げた。
「なぜ逃げる? エル」
エルフェリスはそれを、一歩二歩と後退りしながら拒絶した。
「だって……」
「だっても何もないだろ? 愛する者をこの手に閉じ込めて何が悪い?」
「ひ……ひぇえ……」
そう言ってじりじりと距離を詰めてくるダークアメジストの闇を見据えたまま、エルフェリスは分かりやすくたじろいだ。
「は……恥ずかしいからその表現やめてよ!」
茹でだこのように顔を真っ赤にしたエルフェリスが叫ぶと、生まれつき色白の顔を蒼白に染めた闇――ロイズハルトが心外だと言った顔で呟いた。
「恥ずかしいだと? 自分の気持ちに正直なだけだ」
「こっちは慣れてないんだよ、その……甘いの!」
辛うじて叫ぶと、エルフェリスはぎゅっと目を瞑り顔を逸らしてしまった。それが彼女の限界。
昨夜まで、エルフェリスとロイズハルトの関係は人間の聖職者とヴァンパイアの首領、というだけの関係であった。他のシードヴァンパイア同様に、その距離は始めに比べれば近しいものに変化していたものの、決定的な何かがあるわけではなかった。
手を伸ばせばすぐそこにあるものを掴むのに躊躇し、何度も手を引っ込めては伸ばし、手を引っ込めては伸ばし。お互いそんなことを繰り返しながら、ようやくここまでたどり着いた。
だがヴァンパイアであるロイズハルトからすれば、それはエルフェリスのペースに合わせていただけに過ぎず、本来の彼であればもっともっと言葉も、行動も、それこそエルフェリスが泡を吹いて倒れてしまいそうなくらいのことも涼しい顔でやってのける。それが”ここ”では日常で、当たり前のことなのであった。
だが、エルフェリスにとってロイズハルトとは、生まれて初めてできた特別な人。
人を好きになったことはこれまでも一度だけあったが、環境やタイミングも悪かったのか、その想いは儚く泡沫と消えてしまった。
それから時を経て、まさか自分が異形の者と心を通わせることになろうとは想像もしていなかったが、ここに至るまでの日々は、エルフェリスの心に一生の彩りを与えてくれるだろう。
出会った日も、すれ違っていた日々も、初めてその心に触れた日も、エルフェリスは全部覚えている。忘れられない、大切な日々。
その日々に、終わりが近付いていることを、視界いっぱいに広がるダークアメジストの闇に捉えられながら、感じていた。
あれからそんなに経っていたのだろうか。
エルフェリスはふと、初めてここへ来た日のことを思い出していた。