【残002話】消えた姉(1)

 
 第一夜 招待状

 いつも思い出すのだ。

 この灰色によどんだ空を見ると。けたたましいくらいの雨音を聴くと。

「エルフェリス。私、シードヴァンパイアに逢ったの」

 限りなく美しくて、限りなく誇り高いシードに……。

 そう言って、忽然と消えた姉エリーゼを。

 あれからもう、何年経ったのだろう。自分は十歳にも満たない年齢であったはずなのに、それでもあの日のことは昨日のことのように鮮明に脳裏に焼き付いて離れない。
 
 姉妹はかなり歳が離れていて、姉エリーゼはあの頃すでに成人に近かったはずだ。

 両親のいないエルフェリスにとって、姉エリーゼは姉であると同時に母親のような存在でもあった。いつでも柔らかく微笑んでいて、いつでも自分を守り導いてくれたたった一人の肉親。
 
 その姉が、小さなエルフェリスを置いてどこかへ消えた。別れの言葉も残さずに。
 
 あの時も分厚い灰色の雲が空を隠して、突き刺さるような大粒の雨が地上のあらゆる音を掻き消していた。ひどい雨が続いて、誰もが鬱屈うっくつとしていた中、一日だけすっきりと晴れたあの日。

 エリーゼは一人、村の教会を取り仕切り、エルフェリスたちの育ての親でもあるリーゼン=ゲイル司祭の使いとして、朝早くから隣町まで出かけて行ったのだ。

「今日はいいお天気で嬉しい」

 そう言って。

 だがエリーゼは日暮れ時になっても帰っては来なかった。夜になると、あちらこちらでヴァンパイアが獲物を探して徘徊し始めるというのに、だ。

 使いを頼んだ司祭も、昼には終わる用事であったはずなのになぜ帰らないのか、とうろたえていた。

 そんなエルフェリスたちの心を映し出すかのように重い雲がさっと広がり始め、また再びの雨音が辺りに鳴り響くまで、そう時間はかからなかった。

 かびたような湿気た臭いと、次第に近づいてくる雷鳴に、幼かったエルフェリスは司祭にしがみついたまま震えて待つことしかできなかった。こんな暗い暗い雨の中、一体、姉エリーゼはどこを彷徨っているのだろうかと。

 幼くても、夜の世界がどれほど危険なものかはエルフェリスもよく知っていた。いや、この世界に住まう者ならば誰でも知っているはずだ。たとえ人間の都市であっても、夜になれば安全な場所など無い。ヴァンパイアたちはすぐ近くに潜んで獲物を狙っているのだ。

 未曽有みぞうの不安に押し潰されそうになって、縋るように司祭を見上げれば、それに気付いた司祭はゆっくりと膝を折ると、穏やかな微笑みを浮かべてエルフェリスの瞳を覗き込んだ。

「大丈夫だよ。エリーゼは必ず戻って来るさ」

 そう言って、優しくエルフェリスに笑いかけ、ぎゅっと抱き締めてきた司祭の体が小さく震えていたことを、幼ないエルフェリスは誰にも口外できなかった。そしてその後もエルフェリスを安心させるように何度も頭を撫でながら、その願いがどうか叶うようにと何度も神に祈りを捧げていたのだった。
 
 全身ずぶ濡れになったエリーゼが帰ってきたのは、それからかなり経ってから、夜もどっぷりと更けた頃だった。出掛ける前の、はつらつとした表情とは打って変わって、ひどく複雑な顔をしていたエリーゼは、帰るなりばったりと倒れてしまった。

 驚いた司祭や村人たちによってすぐに介抱されたエリーゼは、ぐったりとしてひどく青白い顔をしていた。この雨の中を戻って来たのだから当然と言えば当然なのだが、それにしても何かが引っ掛かった。

 誰かが呼んできた村の医者にすぐさま診てもらったものの、全身の掠り傷と手首の痣以外は何も異常は無いと、そう言われた。けれどもその手首の痣は、子供心にも底知れぬ畏怖を感じさせるものであったことをエルフェリスは良く覚えている。

 蒼というよりもどす黒く鬱血うっけつしたその痣は、どう見ても人の手の形をしていたのだ。

 まるでつたが絡みつくかのように、エリーゼの白い肌にくっきりと浮かび上がっていたその痣には、その場にいた誰もが戦慄を覚えた。

 あれだけの痣になるとは、余程の力で握り締められたのだろうが、にもかかわらず掠り傷だけで戻って来られたのはなぜなのだろうかと。

 転んで打ち付けたにしてはあまりにも生々しすぎるし、かといって何者かに襲われたのであれば擦り傷だけで済むわけがないと憶測が憶測を呼び、最終的には村全体を揺るがすほどの論争へと発展するほどだった。

 それほどまでに、姉の細白い手首に残された痣は尋常ではなかった。人間の為せる業だろうかと、誰もが内心いぶかしんでいた。

 とにもかくにもエリーゼは無事に戻ってきたわけではあるが、誰かに襲われたのならその犯人を特定せねばならなくなる。ただでさえヴァンパイアが蔓延はびこる物騒な世の中だ。

 親代わりであるゲイル司祭を筆頭に、村長や腕に覚えのある村人たち、どこからか噂を聞きつけたヴァンパイアハンターまで、毎日毎日誰かしらがエリーゼの元を代わる代わる訪ねて来た。だが、誰に何を聞かれようとエリーゼは一切口をつぐみ、答えることを頑なに拒んだ。

 そしてようやく起き上がれるようになった数日後、あの言葉だけを残して人知れず姿を消した。あれから、もうすでに十年近くが経とうとしている。

「……シードヴァンパイア、か……」

 あの時の情景を思い出して、思わず言葉が零れていた。

 小高い丘に建つ大きな教会の窓際に、あの頃のエリーゼと同じくらいの年頃と思われる娘が一人、立っていた。面差しはどこかエリーゼを彷彿とさせるようで、それでいて眼光はいくらか鋭い。突然姉を失った過去を苦々しく思い出してしまったからだろうか。

 言わずと知れたその娘とは、エリーゼの妹であるエルフェリスであった。十年という時を経て、村一番の器量良しとうたわれたエリーゼには及ばないものの、それなりに見目良く成長したエルフェリスがそこにいた。

 彼女はここ最近、今のようにエリーゼを思い出しては複雑な色をその瞳に浮かべて思案に耽ることが多くなっていた。

 エリーゼが姿を消して以降、エルフェリスはリーゼン=ゲイル司祭庇護の元、教会の神官たちや村の人々とともに様々な危険に晒されながらも何とかそのすべてを掻いくぐり、数年前には唯一ヴァンパイアに対抗できると言われている神聖魔法を習得した。

 決して平坦な道のりではなく、時には傷付き、時には死線を彷徨った。それも一度や二度のことではない。それはまさに満身創痍を乗り越えて掴んだ結果とも言えよう。
 
 とはいえ、同じ道を辿れば誰もが習得できるかと問われればそうではない。神に仕える神官は星の数ほどいても、神聖魔法を習得できる者はほんの一握りにも満たない。
 
 エルフェリスはその中でもかなり早く覚醒した例であり、教会本部や村の神官たちからはまさに神の遣いのごとく扱われ、さらにこれからの働きを大いに期待させる存在であった。もっとも当のエルフェリスはたまたま運が良かっただけで、そのような期待や羨望の眼差しなど過大評価もいいところだ、くらいにしか思ってはいなかったのだが。
 
 しかしながらそのような苦境を経て大人になったエルフェリスには、同年代の女性にはない度胸と無謀さが同時に備わっていた。れっきとした聖職者となった今、多少の無茶ならば恐れるに足りぬ。荒野に出て行って、行方知れずの姉を探すこともできるはずだ、と考えながら窓の外を睨み付けていたその時。

「また外を見ているのか?」

 ふいに背後から声をかけられた。振り返らずとも声の主は分かっていた。

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