【残006話】麗しの案内人(1)

 月明かりは時に、迷える者への道標となる。けれど新月である今夜は反対に、果てしない暗闇に吸い込まれてしまいそうな感覚に陥った。

 手を伸ばしても、そこには柔らかな光で輝く月は存在しないのだから。

 今日が約束の夜。村中一切の外出を禁じられた中、深淵の闇に紛れてその使いはやって来る。

 教会の者も皆、早い時間からゲイル司祭とエルフェリスを残してふもとの村へと降りて行った。三者会議に参加しない者は誰も、使者の姿を見ることさえ叶わない。それすらも盟約違反となるからであった。

 誰もがそれを恐れて朝早くから家中の窓を分厚いカーテンで隙間なく覆い、住人は息を潜めて夜が明けるのを待ち続ける。

 今、この教会にはリーゼン=ゲイル司祭とエルフェリスの二人だけしかいなかった。やたらと静まり返った空気が妙に重く圧し掛かって、少し息苦しい。

「怖くはないか? エルフェリス」

 ふいに司祭が声を掛けてきた。

「別に……」

 対するエルフェリスはやや遅れて素っ気なくそう答えた。その答えを聞くや否や、司祭は穏やかなその顔にくすっと小さく笑みを浮かべた。

「そうか……。ここを出たら、生きて帰れる保証は無いからね。お前のたっての頼みとは言え、私は今、お前を同行者として選んだことを深く後悔しているよ」
「ふふ。司祭は“娘”には甘いものね」

 わざとからかうようにエルフェリスがそう言うと、司祭はバツの悪そうな顔で苦笑した。

「大切に育てた娘だからね。せめてお前にだけは無事でいて欲しいんだよ、エル」

 司祭の目尻に刻まれた皺が、いっそうの深みを増す。そんなところにすら、エルフェリスはどこか名残惜しさを感じていた。

 思えばこの“父”、リーゼン=ゲイル司祭もこの数年でだいぶ老けてしまった。歳はエリーゼよりも少しばかり上でまだ四十にはなっていないはずなのだが、しかしそれでもやはり心労が大きかったのか、エリーゼが失踪してからというもの、彼の自慢の肌艶は急速に失われてしまった。気付かぬうちに髪には白い物が随分と混ざり始めている。

 ヴァンパイアに対して絶対的な交流力を持つこの司祭は、人間とヴァンパイアの狭間でいつも両者にとって一番良い共存方法を模索し続けてきた。

 ゲイル司祭もエルフェリスと同じように、いや、それよりも若くして神聖魔法を習得した奇跡の神官であったため、三者会議にはすでに数度の参加経験があった。

 幼い頃から非常に穏やかで、なおかつ好奇心に満ちた少年であった司祭は、臆することなく会議への同行を喜び、そして現地では積極的にヴァンパイアたちとの交流を楽しんだという。それ故にヴァンパイア、特にシードからの信頼は他のどの司祭に比べても群を抜いて厚い。

 大人になった今でこそ多くを語らない性格ではあるけれど、シードと何度か手紙のやり取りを交わしているのをエルフェリスは知っていた。

 三者会議以外で人間とヴァンパイアが進んで交流をするなど話にも聞いたことがないだけに、エルフェリスはゲイル司祭とシードの関係を好奇の目で見ていた。こちら側の不利にならない程度に情報を提供し、こちら側が不利にならないうちに情報を提供してもらう。そんな司祭の行動は恐らく教会側に知られたら懲罰の対象になり得る行動ではあったのだろうが、結果、いくつもの街や村を救うことにも繋がっていた。

 だから司祭はかねてより、エルフェリスにシードヴァンパイアについてネガティブな印象を植え付けるような発言はしなかった。司祭にとって彼らは交渉相手でもあり、友好関係を保ち続けたい相手でもあるのだ。

 それ自体も広く言えば人間のためではあったのだが、シードたちとの交流はゲイル司祭も個人的に気に入っているようにエルフェリスは感じていた。彼らの話題を口にする時の司祭の表情はいつだって穏やかで、そして高揚感に溢れるものだったからだ。

 彼らを化け物扱いすることはせず、反対に今のシードたちがいる限り、人間とヴァンパイアの共存は可能だと力説しては微笑んだ。

 そんな司祭を一番近くで見続けてきたエルフェリスもまた、シードヴァンパイアに対してはそれほどの畏怖を感じずに過ごしてきた。やがてはゲイル司祭の跡を継ぐ者として、エルフェリスが偏見やおびえなどを持たないようにとの配慮があったのかもしれない。

 だから余計に「生きて帰れるかどうか分からない」と言う司祭の言葉には、すうっと背筋の凍る響きが含まれていた。思わず顔を強張らせたエルフェリスの様子を一瞥いちべつして、司祭が微かに目を細める。

「シードはともかく、一部のハイブリッドの行いには目に余るものがあるからね。用心するに超したことはないだろう」
「これからヴァンプの中心に飛び込もうとしてるのに脅さないでよ!」
「おや? 怖くないんじゃなかったのか?」
「う……うるさいなぁ!」

 痛いところを突かれてエルフェリスが思わず声を張り上げたその時、どこからともなく風が舞い込み、室内を照らしていた全ての灯りがふっと消えた。

 一瞬であたりを包み込んだ闇に驚き、エルフェリスがとっさに司祭の腕にしがみつく。

「大丈夫。迎えの使者がいらしたようだよ」

 そんな彼女の肩を優しくさすり、いつもの優しい声で司祭が囁くと、早鐘のように鳴り続けていた鼓動がゆっくりと落ち着き始めるのだから不思議だ。司祭の声には天使が宿っているのではないかとエルフェリスはこんな時でさえ本気で思った。

「行くぞ、エル」

 エルフェリスの手をしっかりと握り締めながら、司祭が教会の扉をゆっくりと開け放つ。連日降り続いた雨によって作り出された水溜りが時折黒く光を放つ以外、特に何も変わらない風景。

 でも、一つだけ違う。

「お待ちしておりました」

 外にはすでに、黒いフードに黒のマントをまとった人物が二人、じっとこちらを見据えて立っていた。

 その後ろには漆黒の馬二頭がひく漆黒の馬車が停められている。一面の黒の中にも繊細で美しい装飾が施され、それはなぜか夜の闇の中にあっても一際異彩を放っていた。

 二つの影は二人に向かって一礼すると、深く被ったフードに手を掛けて、ゆっくりとそれを取り外した。

「うわ……」

 そこにいたのは、思わず溜め息が出るような美しい女と男。両者とも片目が真っ赤に染まっていた。

 それは他でもないハイブリッドヴァンパイアの証。夜になるにつれて片目だけが赤く染まる……ハイブリッドの大きな特徴だ。

「リーディアと申します。リーゼン=ゲイル様、そしてエルフェリス様、私が責任を持って会期中の警護をさせて頂きたく存じます」

 そう言ってから再度一礼し、流れるような動作ですっと身を引くと、ハイブリッドの女リーディアは後方に留めている馬車の扉を開けた。

「どうぞ。足元にお気を付け下さいませ」

 そしてエルフェリスらに馬車へ乗るよう促す。その間にもう一人のハイブリッドの男は御者台に上がると、再びフードを被り直し、黒い手綱をしっかりと握り締めた。

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