禍々しくて陰気、鬱屈とした空気が渦巻いていて窒息してしまいそうになる。
そんな空間を想像していた。
初めは。
けれどすぐにそのイメージは崩される。
良い意味で。
あれからわずかな休憩を何度か挟んだものの、文字通り夜通し馬車を走らせて二度目の夜明けを迎える前に暗道を抜けた一行は、そのまま深い森を一時間ほど揺られた。微かに霧掛かっていて、空気も少し湿っぽい。
雨でも降るのかと窓から空を仰ぎ見れば、不思議なことに見上げる空には霞むどころか無数の星がくっきりと瞬いていた。
驚きに眉根を寄せるエルフェリスをよそに、リーディアは口元に手をやって小さく微笑むと、森を包み込む霧と夜空の星々の関係を至極簡単に説明した。
要するにこの霧は、シードの領域への外敵の侵入を阻むために生み出された一種の幻で、彼らに出入りを許された者でないとその魔法に捕まってしまうのだという。
「それでもお二人は客人として認められていますので霞程度ですんでいると思うのですが、許可なき者には永遠に続くただの森にしか見えないはずです」
言葉は少なかったが、それが意味することを瞬時に悟ったエルフェリスは一度だけぶるりと肩を震わせた。つまりはこの魔法に捕まったら最後、脱出することは容易ではないということだ。
今の自分たちは許可のある者だとリーディアは言ったが、ではこの先は? もしも会議が拗れて決裂でもした場合でも、同様の扱いをしてもらえるのだろうか。
人知れず、ごくりと喉が鳴るのをエルフェリスは止められなかった。
そうこうしているうちに馬車は次第に減速し、ほどなくして完全に停止した。
「到着いたしました」
外から御者を務めていた男の声がする。
「さあ、降りましょう。お疲れさまでした」
乗り込む時とは逆の順番で、誰もがほっと息を吐きながら馬車を降りていく。
「足元にお気を付けください」
扉の縁に手をかけたエルフェリスに手を差し伸べて、リーディアがそっと微笑んだ。意を決してその手を取りながら一歩を踏み出したエルフェリスを、目が覚めるほどの花の香りが包み込んだ。目の前に広がるのは、夜だというのに真っ白く咲き誇る無数の薔薇の海。
「……きれい……」
思わず息を飲んでその光景に魅入っていたエルフェリスに、肩を並べたリーディアが「美しいでしょう?」と声を掛けた。
聞けばシードらの住むこの居城の庭園には常に、一年中何かしら花が咲いていて、その可憐な姿と芳しい香りを楽しむことができるのだそうだ。
「レイフィール様がご自身でお世話をしてるのですよ。あの方は特に白い薔薇がお好きなのですわ」
シードの一人の名前を挙げて、リーディアは穏やかに微笑みながらそう説明してくれた。夜の闇の中でも美しく目立つようにと、色素の薄い色を特に好んで育てているのだそうだ。
古来からヴァンパイアは美しい物好きと言い伝えられてはいたが、血生臭いはずのヴァンパイアが本当に花を好むなど思いもよらなかった。しかも視覚的にももっとも楽しめるように考えて愛でているとは……。
やはり何事も一度は自分の目で確かめねばならないのだと痛感する。
自覚こそなかったものの、心のどこかでヴァンパイアを他の人間と同じように固定概念で見ていた自分がいたことを、エルフェリスはその時初めて思い知った。
常識が覆される。そう思った刹那、空寒い思いが背中をすり抜けていった。
それからリーディアの先導に従って薔薇の庭園を抜け、居城内へと案内されたエルフェリスたちはそのままこの城での仮の住まいとなる部屋へと通された。庭園から見ても視界に収まり切らないほど縦にも横にも広い居城内はひやりとした空気に支配され、規則正しく松明が灯されてはいたものの、人間であるエルフェリスやゲイル司祭には少々薄暗く感じた。
しかし通された客間は一転して明るく暖かく、調度品のどれを取っても目を見張るほど豪華で不思議な趣のあるものばかりで、広さも二人で使用するには十分すぎるほどだった。エルフェリスが暮らす村の規模からすれば、軽く一家族は暮らしていけるだろう。
何という贅沢、何という美しさ。初めて知るヴァンパイアの世界にエルフェリスは驚きと興奮を抑えられずにいた。
「三者会議は三日後の晩となっております。こちら側の都合によりご不便をお掛けしてしまいますが、どうぞご容赦下さい」
部屋や居城の説明を一通り終えて、リーディアはそう締めくくった。
彼女の言う“こちら側の都合”というのは、本来ならばエルフェリスら人間側の代表を出迎えるべき居城の主たちが現在不在である、ということなのだろう。
三者会議を前にして城を空けるなど随分と余裕があるものだと感心していたが、どうやらそうではなくて、ヴァンパイアにはヴァンパイア側の”苦労”と言うものがあるらしい。司祭はその苦労の内容というのを知ってか知らずか、「気にしていない」と苦笑していたが、事情の分からないエルフェリスはいささか口を尖らせていた。
「シードの方々にお会い出来るのは、やはり三日後になりますかな?」
ふいに司祭がそう尋ねると、リーディアは当然の如く「ええ」と答えた。
「今、この城にいらっしゃるのはレイフィール様お一人ですの。他の方々は順次お戻りになりますが、何か急ぎのご用でも?」
「いや、そういうわけではないのですがね」
ごまかすように笑って肩を竦めたゲイル司祭に、リーディアは不思議そうな顔をして首を傾げた。そして反対にエルフェリスは、普段言葉を濁すような物言いをしない司祭ゆえに先ほどの発言には何か意味があるのだと直感した。交流のあるヴァンパイアに早く会いたい、というような気軽な感じではないと。
「レイフィール様にならお会いできると思いますが、いかがなさいますか?」
怪訝に思ったのだろう、リーディアも気を使って改めて司祭にそう聞き直したが、司祭はその申し出に対してゆっくりと首を横に振った。
「今ここでシードと人間が接触を持っては、良く思わない方々もいらっしゃるでしょう。在らぬ誤解はこちらとしても不本意。ここはやはり、会議の日まではゆっくりと過ごさせて頂きますよ」
「……さようでございますか。では私はこれで。ご滞在中は私は向かいの部屋に控えておりますので、何かありましたら何なりとお申し付け下さい」
リーディアはそう言うとエルフェリスらに向けて恭しく一礼し、にっこりと微笑んで静かに部屋を去って行った。
それからたっぷり間を置いてから、エルフェリスはくつろぎの体勢に入りかけた司祭に改めて問うた。
「……本当にいいの?」
すると司祭は何か神妙な顔をしている彼の娘の顔をじっと見つめた後、いつものように優しい笑顔を浮かべてその口を開いた。
「いいのだよ。ただ旧知である彼らに挨拶を、と思っただけ。そんなに気にすることじゃない」
「へえ……」
顔はにっこりと笑っていたが、その時なぜかゲイル司祭はエルフェリスと目を合わせようとはしなかった。彼女のまっすぐな瞳から逃れるように、彼女の疑念を逸らそうとするように、視線をふわふわと漂わせている。
その様子に、ゆったりと穏やかに微笑んではいるがやはり何かを隠しているのでは、とエルフェリスは思った。
シードヴァンパイアと司祭の間に関係があることはもちろん知っている。けれどそれとはまた別の何かを、司祭は心の内に秘めているのではないかと直感した。
司祭は一体何を隠しているのだろう。
だがそれ以後も司祭の様子はこれといって変わりはなく、予定通り三日後の晩、エルフェリスたちはとうとう三者会議当日を迎えることになった。
薔薇の香りに包まれたヴァンパイアの住まう居城で。
第一夜 fin.