「見てはいけない夢を見ているのですわ。カルディナも……他のドールたちも……」
何かを想い出すように呟いたリーディアの瞳から、色が失われていくような錯覚を覚えた。彼女の目に映る景色も、あるいはどこか別の場所を映しているのではないか。そんな印象すら受ける。
けれどエルフェリスは思うのだ。
「ドールだって人間だもん。夢や希望くらいあるよ」
と。
しかしリーディアはゆっくり顔を横に振る。
「いいえ、ドールとなった者は、期待や希望など持ってはいけないのです。だって……ドールは人であって人で在らざる者。――人形なんですもの」
リーディアらしからぬ発言に、エルフェリスは少なからず衝撃を受けた。そんなことはないと言おうとした口がうまく開かず、呆然と立ち尽くすばかり。
人であって、人で在らざる者。
確かに、ドールは人間であって人間ではない。ヴァンパイアの呪いによって変えられた身体は、もはや人間のものとは言い難い。たとえ致死量に値する血液を抜かれようとも、ドールは生き続けるのだから。
「血の契約を交わしたって……人の心は失くさないよ」
エルフェリスのからからに渇いた喉をようやく通り抜けた言葉は掠れていた。記憶は失くしても、心は失くさない。生きているのだから。人間にもヴァンパイアにも心があるように、意思があるように、ドールにだってそれは存在するはずだ。
それなのに、リーディアは尚も否定するように首を振る。切なく微笑みながら。
「もちろん心は生きています。心は自由。人としての記憶は失っても……。だから厄介なのですわ。いっそ心もリセットして下されば……」
そっと伏せた紅い瞳が大きく揺れたのを、エルフェリスは見逃さなかった。そしてその言葉の意味も。
何も、言えなかった。
「エルフェリス様。……私はドールでしたの」
リーディアが笑う。泣くように嗤う。
ああ、やはり。彼女も人間だった。
人間だった。
「今のカルディナは、あの頃の私と同じ……」
「……同じ?」
ようやく反応したエルフェリスに柔らかく微笑んで、リーディアは頷いた。
「ロイズ様に一番愛されているのは自分だと。……あらぬ夢を……」
自嘲の笑みを浮かべながら、リーディアは遥か向こうで誰かと語らうロイズハルトに背を向けた。心なしか、その指先が震えていた。
こういう時に気の利いた言葉でも掛けられれば良かったのだろうが、いくら探してもエルフェリスにはそれを見つけることができなかった。ただただリーディアとロイズハルトの姿を交互に見つめることくらいしかできなかった。複雑で、言いようのない感情に戸惑っていたのだ。
特定のヴァンパイアと“血の契約”を交わした人間はドールとなる。このくらいの知識はあったとはいえ、これまでヴァンパイアと接触すら持ったことのないエルフェリスがその心理を知り得るわけがなく、多少混乱していたのかもしれない。ドールとなる者が後を絶たない理由も、血の契約がどのようなものであるのかも、実際は意外と知られていないのだから。
ひとまずエルフェリスはリーディアの手を引っ張って庭園内を移動すると、群衆から少し離れた茂みの中に並んで腰を下ろした。
リーディアの話を聞いていたら、カルディナに対する怒りも一緒に沈んでしまった。人形扱いされても、それでもヴァンパイアにしがみつこうとするドールをエルフェリスは理解できない。けれどなぜか切なくて苦しくなる。
心をリセットしてくれだなんてセリフは、悲しすぎるドールたちの現実を映し出している。心を失くしてしまったら、その者の存在意義すら失ってしまうというのに。
「私はもともと商家の娘でしたの。遥か彼方まで広がる青い海がとても美しい街でした」
突如人間であった頃の話をし始めたリーディアを、エルフェリスは何も言わずにじっと見つめた。そんなエルフェリスの傍らで、リーディアは星の煌めく空を仰ぎ、大きく息を吸い込んでいる。
「あの頃はまだ、ヴァンパイアと人間の間に境界など無くて、夜毎どこからともなくやって来るヴァンパイアの影に怯える日々でした。私ね、こう見えて意外と箱入り娘でしたの。実家は裕福で、両親はとても厳しい方でした。いずれはこの家に相応しい殿方をお迎えして家を継ぐのだと……ずっとそう言われて育ちました」
「なんか分かる気がする。リーディアの気品は半端ないもん」
思わずくすくすと笑いが込み上げてきて、エルフェリスはリーディアにそう言った。彼女の綺麗な言葉、優雅な物腰、どれを取っても溜め息が出るくらいに美しい。自分が恥ずかしくなるほどに。
「まあ、そんなたいそうなものではありませんわ。けれどね、エルフェリス様。私はそれでも、彼らへの好奇心は捨てられなかったのですわ」
「好奇心?」
「ええ。箱の中にいればいるほど、箱の外に興味を持つものです。私は愚かにもヴァンパイアというものを一目見てみたいと思うようになっていたのですわ。そしてある夜、ついに家を抜け出して、街外れの廃墟と化した教会に身を隠して外を窺っていましたの。ちょうど今と同じように」
そう言うと、リーディアは茂みの隙間からロイズハルトを指差し、オリーブ色と真っ赤に染まった双眸を同時に細めた。まるで少女のように。
「その教会付近ではひどく美しいヴァンパイアが出没するという噂があって、私はいても立ってもいられなくなりましたの」
――本当に愚か。
そう言って夜空を見上げるリーディアには、ヴァンパイアの面影など感じられなかった。むしろ人間であるかのように錯覚した。
ヴァンパイアは、あまり過去を懐かしがらない。振り返らない。永劫の時を生きるヴァンパイアにとって、過去など幾らでも修正できる、再現できるものなのだから。
だからその逆として、人間は有限の命であるが為に日々後悔の連続だ。何かをしては、ああすれば良かった、こうすれば良かったと悔やみ、それでも更なる高みに憧れて。そしてまた後悔するのだろう。自分には到底手に負えないものであったと。けれども時にそれが案外いい思い出になったりもするのだから不思議だが。
――リーディアは……悔いているのだろうか。
人を“捨てた”ことを。