✚残060話 狂える月(3)✚
彼がどれほどの時を生きてきたのかなどエルフェリスの知るところではなかったが、この目は確かに人を惹き付ける。この存在は確かに人の心を掴むのだ、とエルフェリスは思った。
まるであの空みたいだと。
暑い暑い日々を突き抜けるような青い空。揺るぎのない色が、ヘヴンリーの瞳には宿っているような気がした。
「私さ、不思議に思っていたことがあるんだ」
そんなことをぼんやりと考えながらも、エルフェリスはゆっくりと口を開く。
「あんたとリーディアは……同じハイブリッドなのに、なんであの時まったく別の意見を?」
「あの時って?」
青い空にひとかけらの雲がさっと流れてきたかのように、ヘヴンリーの顔色にもわずかな不審の影が落とされた。
その反応に、確かにこれだけでは言葉少なだったかもしれないと思い至ったエルフェリスは、その言葉の意味を補うためにも先を続けた。
「三者会議の時よ。あんたもリーディアもまったく別の立場を取っていたのはなんで? ハイブリッドはハイブリッドで意見を一つに纏めるべきだったんじゃないの?」
「ああ……」
そのことかと言いたげな顔でヘヴンリーは腕を組み直すと、窓の外の太陽に目を向けた。
先ほどよりもまた高さを増した光の塊が、遮光ガラスの向こうからエルフェリスたちを見つめている。
ヘヴンリーはまたもやしばらく押し黙ってその姿を眺めていた。だからエルフェリスも先を促すようなことをせずに、じっと彼が口を開くのを身動きせずに待った。
異様な空気が流れていった。
誰もいない、真昼の静かなロビーの間を。
だが次の瞬間、ふと鼻を抜けるような笑い声が辺りに響く。
はっとしてエルフェリスが顔を上げると、含み笑いを噛み潰すかのように肩を揺らしているヘヴンリーと目が合った。
するとヘヴンリーは口元に手をやって、なおも笑いながら何度か頭を振る。
「意見が合うわけないさ。俺とリーディアは同じハイブリッドでも対極を成す者。この世界が滅びる瞬間でも来ない限りは気の合うことすらないだろうよ」
はははと渇いた声でヘヴンリーは笑う。
「対極? なんでリーディアが?」
対するエルフェリスはなぜリーディアがヘヴンリーの対極とされるのか、すぐには理解できなかった。
たとえばヘヴンリーとシードが、というのなら納得できる。
あまりヴァンパイアの世界について詳しくなかったエルフェリスですらも、彼らの間に溝があることは容易に把握できたからだ。
しかしリーディアとは?
あんなに人当たりも良いリーディアが、よりにもよってハイブリッドの急進派を束ねるヘヴンリーと真逆の存在と謳われるとは意味が分からなかった。
表情は極めて冷静を装ってみたものの、エルフェリスの頭の中は疑問でいっぱいになっていく。
なにがそんなに気に入らないのだろう、と。
そんなエルフェリスの様子すらもヘヴンリーは目聡く見破っていたのだろう。口元をにやりと引き上げて、目を細めてそして言ったのだ。
「リーディアはシードの犬みたいなモンだからな」
「……え……?」
その言葉に、今度はエルフェリスが声を失った。
シードの……犬……。
「……なによ、それ……。そんな言い方……」
震える手を握り締めて、震える声を絞り出すエルフェリスの頭の中で、何かが音を立てて崩れていく。
「そんな言い方……!」
「酷いか? そのまんまの意味だけどな」
「――っ!」
自分でも顔色が変わるのを自覚できるほどに、ヘヴンリーの放った言葉は嵐となってエルフェリスの眠れる感情を呼び覚ました。
電撃にでも打たれたかのようにソファから立ち上がると、激しい怒りを隠そうともせずヘヴンリーを睨み付ける。
噛み締めた歯列から漏れる唸りは、エルフェリスに残された最後の理性の音だったのかもしれない。
だが、相対するヘヴンリーはそのようなエルフェリスを見ても微動だにせず、それどころか逆にソファに身を沈めてゆったりと両腕を組んだ。
「今にも飛び掛ってきそうな顔だな。それ、お前の欠点だぜ? 聖女エルフェリス」
ふっと嘲笑うかのように言ったヘヴンリーに、またもやエルフェリスの顔が引きつる。
しかし一方のヘヴンリーはそれすらも楽しそうに見つめている。
「あんたがリーディアのこと気にくわないのは分かった。でも、犬って言葉は撤回して!」
「撤回? そんなことするわけないだろう? 俺とリーディアは相違える者。俺はヤツが目障りなんだよ。最ッ高にな!」
「……どうして」
気分の悪い薄ら笑いを浮かべてそう吐き捨てたヘヴンリーを、エルフェリスはできる限りの侮蔑を込めて睨み付けていた。
けれどヘヴンリーは相変わらず動じない。それどころか余裕たっぷりなところを嫌というほどエルフェリスに見せ付けてくれるのだ。
「俺がハイブリッドの急進派のトップだってことはお前も知っているんだろう?」
「それがどうしたっていうのよ」
今更そんな話かと苛立つエルフェリスは声を荒げたまま受け答えする。
しかしヘヴンリーはその回答を満足だと言わんばかりに何度か頷くと、さらに話を進めていった。
「なら話は早い。リーディアは俺たちと敵対する勢力のトップなんだよ。シードの世を頑なに守り通そうとしている保守派どものな!」
「……保守派?」
その言葉に、エルフェリスは意表を突かれ一瞬にして怒りを忘れた。
「保守派って……何?」
今までに一度もそんな勢力を耳にしたことなどなかった。
リーゼン=ゲイル司祭と共に教会に在った時も、ハンターであるデストロイの武勇伝の中でも、ヘヴンリー率いる急進派の名が出ることはあっても、保守派という勢力の名は一度たりとも聞いたことはなかった。
「知らないのも無理はないさ。奴らは地に隠れた存在。表向きは他のハイブリッドと何ら大差なくとも、裏ではシードの名代として俺の配下を潰しにかかる戦闘集団なんだよ。その主力トップがリーディア。あの女なんだ」
不敵に笑う中にも忌々しさの見え隠れする顔で、ヘヴンリーは半ば吐き捨てるようにそう言った。