✚残064話 雨の夜の再会(3)✚
「こっち見ないでよ……」
そんな真面目な顔をして私を見ないで。
そう思いながら、しばしデューンヴァイスから視線を外した。そうでもしないととてもじゃないが心臓がもたない。
普段は調子の良い表情しか見せないくせに、こんなに人気の無い所でそんなに真面目な顔をされたら、嫌でも鼓動してしまう。
それをデューンヴァイスに悟られてしまうことが、ひどく悔しかった。彼のペースに乗せられて行くようで。彼の悪戯に翻弄されてしまっているようで。
だからエルフェリスはデューンヴァイスを視界に入れないように、意識して目を逸らしていた。
それなのに。
「エール。こっち向けって」
突然顎に手を掛けられて、強引に顔をデューンヴァイスの方に向かされる。
そこにあったのは、優しく、そして妖艶に微笑む男の顔。
その表情をちらりと一瞥して、エルフェリスは再び彼から目線を逸らした。
いつものデューンヴァイスからは想像できない顔をしていた。
何だろう、これ……。
何でそんな顔するの。
そんな顔して、私を見ないで。
「うはは、意識してんの? エル?」
意地悪く声を弾ませてにやりと笑うデューンヴァイスが視界の端に入ったが、それでもエルフェリスはきつく唇を噛み締めて、彼のかけてくる揺さぶりに応えないよう必死に目を逸らした。
その目に囚われたらきっと、色んな意味でパニックになる。というか、今の時点でもうすでに半分パニックに陥っているようなものだ。自分が今どのような顔をしているのかも、まったく見当も付かない。
「……離してよ」
「ダーメ」
「蹴るよ」
「いーよ?」
今のエルフェリスにそんな勢いがないことを分かっているのだろうか、デューンヴァイスは余裕たっぷりでそう切り返してくる。
この状況。この雰囲気。
何か……冗談抜きでヤバくない?
ここまで来てから危機感を感じてもすでに遅い気がするのだが、とにかくやばい。色々やばい。
心臓も時を経るごとに激しく速く血液を送り出す。
どうしよう。
どうしよう。
こんなところを誰かに見られたりしたら……。
ついでに変な誤解でもされたら……。
そう思った瞬間に、逸らしていた視線の先に人の影が映る。
ヤバイヤバイと思っていた矢先ゆえに、エルフェリスの脳内は完全なパニックに陥った。
「ちょっと……離してってばっ! コラッ」
デューンヴァイスの大きな手をむんずと掴んでなんとか引き剥がそうとしても、所詮男の力には敵わない。
そんなことは百も承知だったが、なんとかこの場は退いてもらわねばならなかった。
なぜならやって来たのはロイズハルトだったから。
元々焦っていたところに、さらに焦りが増していく。
「もー! ホント離れて、お願いだからっ」
ぐいっとありったけの力を込めて押し返しても、デューンヴァイスの体はぴくりとも動かない。それどころか徐々に引き寄せられている気さえする。
この野郎と思ってちらりとデューンヴァイスを見上げると、彼もまたやって来るロイズハルトに気付いたのか、そちらを横目で見ながらくくっと小さな笑みを漏らしていた。
そしていつの間にかぐっと寄せたエルフェリスの耳元でくすくすと囁く。
「なーに? エル。ロイズが来たからそんなに抵抗してんの? 俺だけ見てりゃいいのに」
くすくすと、デューンヴァイスの笑い声だけが耳に残る。
一瞬、正直動揺した。図星を指されたような、心臓を貫かれるような……デューンヴァイスの言葉に。
けれどすぐに我に返ると、エルフェリスは引き寄せられたデューンヴァイスの腕の中で、なにかを掻き消すようにいっそうもがいた。
「違うよバカ! てか離せってばッ」
力に加えて、口でもさらなる反撃を試みるエルフェリスに、デューンヴァイスはおもしろくなさそうな顔をして軽く舌打ちすると、再び耳元に唇を寄せる。
「そーゆーこと言うなら塞ぐぞ、その口」
「うわぁあ……ぁぁ」
セリフもセリフだったが、同時に耳元にふっと息を吹き掛けられて、エルフェリスは堪らず変な声を上げてしまった。
それが妙に気恥ずかしく慌てて口を押さえるエルフェリスを尻目に、デューンヴァイスはくすくすと肩を揺らす。
絶対遊ばれてる!くやしーーッ!
デューンヴァイスの腕の中、憤怒の表情で行き場のない怒りを爆発させるエルフェリスであったが、そんなことをしているうちに気が付けば、呆れ顔のロイズハルトが傍らに立っていた。
エルフェリスとデューンヴァイスを仁王立ちのまま交互に見比べて、そして大きく溜め息を吐く。
その次に吐き出されるであろう言葉の見当はだいたい付いていた。
「おい、アホども。少しは他人の目に触れるかもしれない危機感を持て。変な噂立てられても知らないぞ」
顔の半分を引き上げて、にやりと笑うロイズハルト。
そんな彼の姿をじっと冷めた目で見つめていたデューンヴァイスも、突如同じような顔をして口元を吊り上げた。
「俺は別にエルとならかまわねぇよ? なー、エルちゃん」
そしてそう言ったデューンヴァイスは人懐っこい笑顔を浮かべて、エルフェリスにぴったりとくっつけた頭をさらに擦りつける。
その様子を頭上から見下ろすロイズハルトからはまた盛大な溜め息が吐き出される。彼の瞳から発せられるダークアメジストの光は、噤んだ口の代わりに、さもくだらないと言いたげに細められた。
ちくりと一刺し。胸が痛む。
「だーかーらー離れろって言ってんじゃん!」
こうなってしまってはもうエルフェリスもやけくそ気味で、とにかく密着してくるデューンヴァイスを引き剥がすことだけに専念した。
努力空しくロイズハルトに見られてしまった。
誤解されてしまったかも……という一抹の不安と、なぜだか絶望感が体の中を走り抜ける。
が、この際もうどうでもいい。
とにかく、ロイズハルトの疑念を晴らすためにも、ひとまずはこの乱れた姿勢を正したかった。
完全にデューンヴァイスに抱き込まれたこの体勢では、何を言ってもきっと説得力に欠ける。
それに……どうやらデューンヴァイスは気付いていないようだったが、散々暴れたせいで、エルフェリスの膝下まであるはずのローブの裾が腿の辺りまで捲れ上がっている事実に今さら気付いた。
さすがにこれにはエルフェリスとて聖職者として有るまじき姿だと、内心では大汗をかく思いだった。
そしてなによりも、そんな姿をロイズハルトにも曝してしまっていることにどぎまぎしてしまう。彼は気付いているのだろうか。
じっとエルフェリスの方を見て、目を逸らそうとしないロイズハルト。
もしかして気付かれていないかも、などと都合の良いことを考えもしたが、なんでこんなことになってるんだろうと泣きたくなる。
そう思いつつも蘇るのは、薔薇の庭園でデューンヴァイスに足を触られた記憶。なんとしてもあの時の再現だけは阻止せねばならない。
エルフェリスの抵抗を無邪気に楽しんでいるデューンヴァイスをよそに、こっそりと目を盗んで捲れ上がった裾に手を伸ばし、それを直そうと試みる。
けれどもがっちり抱き込まれているせいで、あと少しのところで腕の自由が奪われてしまった。
「あっ!」
あとちょっとだったのにぃぃ……!
などと思っていると、ふと仁王立ちのまま動向を見守っていたロイズハルトがちらりと視線を動かした。
あ……。やっぱり……気付かれてる。
そんな風に思っていると、突如にやりと笑みを浮かべたロイズハルトが、空いていたエルフェリスの隣にゆっくりと腰を下ろした。そして腕組みをしながらゆったりとソファの背もたれに身を預ける。
その後、また再びちらりと横目でエルフェリスとデューンヴァイスの方を窺った。
図らずも再び間近でロイズハルトとエルフェリスの視線が交錯する。
するとロイズハルトは意味あり気に微笑んだまま、一瞬その視線をどこかへ走らせると、ふいにエルフェリスの頭越しに向けて声を発した。
「おいデューン。そろそろエルを離してやれ。そのままだと……いいモノ見逃すぞ?」
そしてふふんと鼻を鳴らして、ちょいちょいっと指先でどこかを示す。
すると見事にそれに釣られたデューンヴァイスが、ぱっとエルフェリスの体を解放した。そしてロイズハルトが示したところを覗き込もうとする。
だからエルフェリスはそれよりも早く体勢を立て直し、素早く曝されていた足を隠さねばならなかった。ロイズハルトがどこを指差していたのかなんて、わざわざ確認しなくても分かっている。
さっとスカートの裾を下ろした瞬間、デューンヴァイスの顔がにゅっと伸びてくる。
それはまさに間一髪。
「なんだよ、何もねぇじゃん」
あからさまに残念がるデューンヴァイスの隣で、エルフェリスは一人安堵の溜め息を吐いた。そしてそれを見ていたロイズハルトは顔を背けてくすくすと笑っている。
そんなロイズハルトに対して、エルフェリスは初めこそ非難の眼差しを向けてはみたものの、デューンヴァイスの束縛から解放してもらったことも確か。
少しだけもやっとする心境を引きずったまま、とりあえずはようやく訪れた自由にそっと胸を撫で下ろした。