✚残066話 雨の夜の再会(5)✚
「エルっ?」
背後から二つの声がエルフェリスの名を呼んでいる。
けれどもその声はもはやエルフェリスの耳には届いていなかった。
ただただ、回廊の向こうに消えた影だけを追っていたエルフェリスには、何も聞こえず、何も見えなかった。
だって見てしまった。
ずっと捜し続けていたあの姿を……。
たった一瞬のことであろうとも、見間違えるはずはなかった。
目に強烈に焼き付いた残像を。見間違えるはずはなかった。
「……エリーゼ……。……エリーゼッ!」
大好きだったその女性の名を、気付けば叫んでいた。
その声に、はるか前方を歩いていた女性が振り返る。速度を上げて駆け寄るエルフェリスのことを、女性は不思議そうな顔をして見つめていた。
彼女に一歩一歩近付くにつれて、エルフェリスの心臓がどくんどくんと暴走を始める。
女性までの距離が、やたら長く感じられた。
こうやって全力で駆けていても、足の震えが手に取るように分かる。少しでも力を抜いたら、そのまま崩れ落ちてしまいそうだった。
けれども。それでも。
身体が勝手に前へと進もうとする。彼女の元へと、行こうとする。
白いローブを翻して。
クリスタルの十字架を跳ね上げて。
速度を落とすことなく女性の元へと辿り着いた頃には、エルフェリスの息はすっかり上がっていた。ぜいぜいと、自分でも情けなくなるほどに肩で息をする。
呼び止めておきながら呼吸もなかなか整えられないことが歯痒くて、エルフェリスは思わず俯いた。
その間も、女性の瞳はエルフェリスに向けられていた。
一旦外した視線を元に戻すことがひどく怖い。
彼女が自分をどのように見ているのかが怖くて、彼女が本当に姉なのかと思うと不安で、じっと冷たい床を見つめたまま、エルフェリスはしばらく途方に暮れた。
するとふいに、目の前にすっと細い手が差し出された。
その細い指に、はっとして顔を上げると、そこにはやわらかく微笑んでエルフェリスを見つめる女性の顔があった。
けれども……彼女の口から出た言葉に、エルフェリスはすぐに落胆することになる。
「私を呼んだのはあなたですか? ……失礼ですがどなたかしら?」
掛けられた言葉は他人行儀なものでも、その声は確かにエルフェリスの姉エリーゼのものであった。
その顔も、その姿も、あの日のまま止まっているが、間違いなくエリーゼだと思った。
けれどエルフェリスに向けられた言葉は、それをすべて否定するかのような残酷な現実。
エルフェリスのことを知らないと、覚えていないと言われたも同然であった。
「あの……えっと……、……私……」
とっさに引き留めたは良かったが、いざ面と向かうと何を言って良いのやら分からなくなる。
ましてや誰なのかと問われた後だ。余計に思考が絡まって動かない。
何から話そうかとしどろもどろになっていると、女性はふいににっこり笑ってエルフェリスの胸元に手を伸ばした。
そして言った。
「まあ、クリスタルの十字架。私もこれと同じ物を持っているわ」
そしてそれだけを言うと、女性は自身の首に下げていたネックレスを引き上げて、それを両手に載せてエルフェリスに向ける。
「ね? ほら、同じ。不思議ですね」
彼女はそう言うと、再びにっこりと微笑んだ。
けれども。
「……? どうかなさった?」
すぐにその顔が不安に歪む。
絶句したままのエルフェリスが、口元を手で覆ったまま微動だにしなくなったからであった。
しかしエルフェリスはすぐさまはっと我に返ると、でき得る限りの笑顔を作って何度も何度も激しく首を振った。
まるで揺らめく自分の心を彼女に悟らせないようにするかのように。
それによって、しばらくは不安そうにエルフェリスを見つめていた彼女も、少しずつ表情を取り戻していったようだった。
「……突然呼び止めたりしてすいませんでした。私は……エルフェリスといいます。人間です。えっと……あなたのことは噂で聞いていたので……えっと、つい声を掛けてしまいました! お時間を取らせてしまってすいませんでした」
歯切れも悪く早口でそれだけを伝えると、さっと頭を下げるエルフェリス。
その途端に目頭の辺りがじわじわと熱くなる感覚に囚われた。
もうずっとずっと忘れていた感情が蘇る。
けれど喉の奥にぐっと力を込めると、再び作り上げた笑顔をもってエルフェリスは目の前の女性と向き合った。
彼女は美しく微笑んでいた。
「いいえ、お気になさらず。私はエリーゼ。私もあなたのことはルイ様より聞き及んでいました。一度お会いしたいと思っていたのですよ。とても元気な方がいると、ルイ様はとても楽しそうに話して下さったの」
ふふふ、とにこやかに笑うその顔を、エルフェリスは何とも言えない息苦しさを押し殺しながら見つめていた。
けれど、それはどんどんエルフェリスの中で質量を増していき、その表情を奪っていく。
「ありがとうございます。……それじゃ……失礼しますね」
もうこれ以上は……耐えられそうになかった。
エルフェリスはエリーゼと名乗った女性にもう一度頭を下げると、それからさっと踵を返す。
その瞬間、遠くの方から見守るようにして立ち尽くしているロイズハルトとデューンヴァイスの姿がエルフェリスの目に入った。
身動きも取らないで、彼らはじっとこちらを見つめている。
見ないで。
見ないで。
何とか平静を装ったまま彼らの方へと足を踏み出したは良かったが、無理やり抑え付けていた感情は今にも溢れ出しそうなほど急激に高まっていった。
見ないで。
見ないで。
――苦しい。
ロイズハルトやデューンヴァイスとの距離が縮まるごとに、胸の奥が締め付けられる。
苦しい。
熱い。
苦しい。
熱い。
見ないで。
見ないで。
――もう……ダメだ。
手を伸ばせば二人に触れられそうなほどすぐ近くまで来たところで、エルフェリスの感情は限界を超えてしまった。
その瞬間、エルフェリスの中から解き放たれたもの。
それは、遠い昔に枯れ果てたと思っていた、涙。
涙。
堰を切ったかのように瞬く間に溢れ出した涙の洪水を、どうしても止められなかった。
エリーゼの姿、エリーゼの声、エリーゼの命。
すべてがエルフェリスの心を激しく揺さぶって、あとからあとからとめどなく零れ出す涙をどうしても止められなかった。
そんな姿を見られたくなくて、エルフェリスはぐいっと目元をその腕で拭うと、とっさに駆け出していた。ロイズハルトやデューンヴァイスから逃げ出すように。
押し込めることなどできなかった。
我慢することなどできなかった。
だって確信してしまったのだから。
エリーゼだと。
あの女性は間違いなく姉エリーゼだと……確信してしまったのだから。
喉の奥が苦しい。焼けてしまいそうなほどに苦しい。
「エル!」
突然泣いて走り出したエルフェリスを心配したのか、ロイズハルトとデューンヴァイスがその名を呼びながらあとに続く。
だが、それでもエルフェリスの足は止まらなかった。
心の赴くままに、足が勝手にどこかへと向かう。
流れる涙は熱く、エルフェリスの頬を何度も何度も伝っては零れ落ちていった。
もうずっと忘れていたその熱さをその身に刻み込むように。
回廊の角を何度も曲がり、がむしゃらに走り続けてやがて辿り着いたそこは、雨の降りしきる薔薇の庭園。
どうしてここに来たのかは自分でも分からない。
分からないけれど、雨の音に誘われるかのようにここまで来てしまった。
濡れることもいとわずにそのまま外まで駆け出ると、エルフェリスの足はようやく速度を緩めた。
ずっと全力で走っていたせいで呼吸も上手くできない上に、足もがくがくと震えていた。
急速に力を失った足でよたよたと数歩進んだところで、エルフェリスは力尽きるようにその場に崩れ落ちる。
地面に溜まった雨水が、白いローブをみるみるうちに泥色に染めていく。
それでもエルフェリスは、その場から動くことができなかった。
溢れ出る涙もそのままに、ただただ感情を剥き出しにしている自分を雨の中に曝していた。
やがてすぐにロイズハルトとデューンヴァイスが追い付いて来たのに気付いたが、取り繕う余裕さえもないエルフェリスにはどうしようもなかった。
次から次へと雨に溶けていく涙を、声を、抑えることなどできない。
気が付けば、雨の中。
地べたに座り込んだまま、声を上げて泣いていた。
しかし時おり、笑っているのだろうか、というような声も入り交じり、怪訝に思ったロイズハルトとデューンヴァイスは互いに顔を見合わせると、小さく目配せをして片方は顎でエルフェリスの方を指し示し、片方はそれを見て頷いた。
一歩踏み出したロイズハルトがそっと声を掛けてくる。
「……エル?」
遠慮がちに差し出された手を視線で辿ると、わずかに眉をひそめたロイズハルトの顔がそこにあった。切れ長の目尻が少しばかり下がって見える。
そしてデューンヴァイスはエルフェリスの斜め後ろにしゃがみ込むと、その大きな掌でエルフェリスの細い背中を何度も何度も優しく擦った。
小さな子供を慰めるように何度も。
その優しさに、二人の暖かさに、再び涙が溢れ出す。
「エル」
ずぶ濡れになりながらもエルフェリスに寄り添う二人は、泣きじゃくるエルフェリスの名をずっと呼び続けるだけで、その先を促すことは決してなかった。
ただただ黙ってエルフェリスが動き出すのをじっと待っていた。
その優しさに、甘えたくなる。
「エリーゼが……いたの……」
「……うん」
「……エリーゼ……生きて……た。……エリーゼ……」
「……そうだな」
それはほとんど声にならない声だったにもかかわらず、それでもロイズハルトとデューンヴァイスは何度も頷きながら、泣きじゃくるエルフェリスを優しく包み込むように答えた。
止まらなかった。
涙が止まらなかった。
エリーゼが生きていた。
たった一人の肉親であるエリーゼが生きていた。
本当はもうずっと諦めていた姉が、こんなに遠いところで生きていてくれた。
「エリーゼ……、ッう……うう……」
その事実を初めて目の当たりにして、言い表せないほどに心が震えた。
生きていてくれたことが嬉しくて。でも、何もかもを忘れてしまっていることがショックで。
もしもう一度出会えることがあったのなら、思いっきりぶん殴ってやろうと心に決めていたことなど、あっという間に記憶の彼方へと追いやられてしまった。
たとえどんな形であろうとも、エリーゼが生きていてくれただけで十分だと思った。
自分はまだ……独りじゃない。
「……っく……」
一度溢れ出した涙は止まることを知らず、冷たい雨に溶けていく。
息苦しくて、けれどもこの熱い涙を、私はきっと……忘れない。