✚残068話 影はいつでもすぐそこに(2)✚
「くくっ、エル。そんな反応されたらこっちがびっくりするだろう?」
色白く細身の身体を揺らしながら、ロイズハルトはそう言うとエルフェリスの方に歩を進め、背後からぬっと覗き込んできた。
突然視界の中にロイズハルトの顔が入り込んで、エルフェリスはさらに驚きの声を上げてしまった。すると部屋の向こうから何やらデューンヴァイスの寝ぼける声が聞こえてくる。
今の絶叫で起こしてしまったのではないかと心配したエルフェリスが遅ればせながらも慌てて口を噤んで気配を殺すと、ほどなく聞こえてきた大きないびきにほっと安堵し、ふっと息を吐いた。
けれどすぐ近くにロイズハルトの顔があることを思い出して、エルフェリスはまたはっと息を呑んだ。
ほっとしたり緊張したり、感情とは本当に忙しいと思ったけれど、横目でエルフェリスを見やるロイズハルトは妖艶に微笑んでいて、平常心を保てと言われる方がきっと難しかっただろう。
だがロイズハルトはふいにすっと姿勢を正すと、その大きな手でエルフェリスの頭をがしっと掴むと、何度か激しく揺さぶった。
左右予測も付かない方に揺すられては、さすがのエルフェリスも堪らない。
「わぁ、やめてよ! 目が回るよ!」
なるべく声をひそめて、でもそれなりの声色で抗議するエルフェリスに、ロイズハルトは楽しそうに笑ってそして頷いた。
「よしよし、いつものエルに戻ったな」
「……え……?」
頭上に置かれたままの彼の手首を両手で握り締めながらも、エルフェリスは思わずきょとんとしたまま聞き返した。
――もしかして、心配……してくれてた?
再度聞き直して、彼の言葉の真意を見出そうとするエルフェリスに、ロイズハルトはいつもの調子でにっこり微笑んだ。
「エルにいつもの元気が戻って良かった。……と言っているんだ」
「……えっと……」
「昨夜はまあ驚きもしたが……良かったんじゃないのか?」
「……うん」
「それに泣き疲れて寝てしまうところも可愛かったな。だが……風呂では寝るな」
「……うん。……分かった……。…………えっ?」
珍しく素直に受け答えしていたエルフェリスであったが、最後の一文がすぐに理解できず、変に顔を歪めたままロイズハルトを見上げた。
そんなエルフェリスの様子に呆れたのか、ロイズハルトも少しだけ眉を下げると、「覚えてないのか? まあ当然だな」と苦笑した。
彼の言う通り、覚えていなかった。というよりも、何のことを言われているのか心当たりがない、と言った方が適切かもしれない。
昨夜、雨音の鳴り響く城のロビーでエリーゼと遭遇したあと、あまりの歓喜と動揺に耐えきれず雨の降りしきる庭園で感情を露わにしたエルフェリスは、ロイズハルトやデューンヴァイスに支えられて部屋まで戻ったところまではかろうじて覚えていた。
だが、そもそもそのあとに風呂へ入った記憶がもうすでにない。
「……っ!」
瞬間、物凄い勢いで首を振り出したエルフェリスを目の当たりにして、ロイズハルトは声を殺してくくっと笑った。
そしてエルフェリスはいまだどういう意味か分からずに狼狽していた。
「私……あれっ?」
腫れて重くなった目を限界まで見開いて全力で聞き返すエルフェリスに、ロイズハルトは笑いを堪えたまま事の経緯を手短に話してくれた。
それによると、昨夜エリーゼとの再会を果たしたエルフェリスはあの後泣くだけ泣いて、そして泣き疲れて眠ってしまった。
エルフェリスが泣き止むまでずっと付き添ったロイズハルトとデューンヴァイスに部屋まで送ってもらった後、報告を受け慌てて駆け付けてくれたリーディアにも散々心配を掛けながら風呂へ入り、あろうことかそのまま眠りに落ちたらしい。
「……私……、寝ちゃった? てか……じゃあ誰が?」
誰が私を見つけてくれたのだろう。自然と思考はそちらへ向かう。
「もちろんリーディアが見つけてくれたんでしょ?」
当たり前のことを当たり前だと思いながら問うエルフェリスに、ロイズハルトはなぜかその整った顔を不自然なほどに歪めてにやりと笑った。
そしてゆっくりと腕を組むと、さらにずいっと身を寄せて、そっとエルフェリスの耳元で囁く。
「まあ見つけたのはリーディアだけど? ……なぁ?」
妙に艶っぽい声と目線を向けられて、否応にもエルフェリスの身体が硬直する。
そんな様子も彼には一目瞭然なのか、微かにエルフェリスから顔を背けると、声を押し殺してくすくす笑っていた。
「……ロイズ……からかってるでしょ」
彼の反応からすぐにからかわれていると悟ったエルフェリスは、あからさまに口を尖らせて抗議の言葉を投げ付けた。
まったく、どいつもこいつも人をからかって!
思わず握り締めた拳を振り上げたくもなったが、はっと思い留まると、湧き上がる不満を何とか押し込めて不器用な笑顔を作ってみせた。
それは誰から見ても不自然だったかもしれないけれど、からかわれた怒りを抑えているこちらからすれば上出来だろう。
「私は玩具じゃないんだからね!」
あちこち引き攣った不気味な笑顔のまま、そう念を押すことも忘れない。
すると一瞬息を止めたように見えたロイズハルトが突然噴き出した。
「はは! そんな引き攣った笑顔で言ったって説得力ないぞ! ははは」
悪気など少しも感じていないような無邪気な笑顔でロイズハルトはそう言うと、しばらく腹を抱えて爆笑した。
エルフェリスはもちろんその様子を、腑に落ちない思いのままずっと見つめていることしかできない。
……何で笑うんだよ。
確かに変な顔だし目も腫れてるけれどそこまで笑うことないじゃないか、と再び感情に波風が立ち始める。
しかしここでまた口を開けばドツボに嵌るだけだと自分に言い聞かせて、彼の笑いが収まるのをじっと待ち続けるしかなかった。
それからほどなくして。
一通り笑い転げて気が済んだのか、ようやく元の調子に戻ったロイズハルトがおもむろに口を開く。それがまた、エルフェリスの心に新たな感情をもたらすのだ。
「まああれだ。そこまで目が腫れちまったのは本意ではないかもしれないが、後悔はしないことだな。決して悪い涙じゃなかったんだから」
な、と優しい笑顔と口調でそう告げられて、今までの怒りが一気に吹っ飛んだ。
代わりに心臓をぎゅっと掴まれるような感覚に戸惑う。
こんなにも忙しく色々な表情を見せるロイズハルトは珍しく、エルフェリスはひたすら翻弄されていた。
けれど何気ないその言葉がエルフェリスにとっては嬉しくて、エルフェリスは思わず目を細めるとお礼の言葉を言おうとして彼に向き直った。
しかしそこで再び思わぬ光景を目の当たりにする。
「うわぁぁあ! 何やってんのロイズッ」
ありがとう、と言うつもりが、口から出たのは静寂を切り裂くような絶叫だった。