✚残071話 影はいつでもすぐそこに(5)✚
懐かしく響く司祭の名前に、心の底から郷愁の念が湧き出すのを感じた。
「……司祭からの!」
同時に驚いて目を見開いたままエルフェリスはすぐに手紙に手を伸ばすと、白い封筒から白い便箋を取り出して、ゆっくりと文面に目を這わせた。
――親愛なるロイズハルト様。
そういう書き出しで綴られた手紙には相変わらずのうっとりするような綺麗な文字で、シードの近況を尋ねる内容や、独り居城に残してきたエルフェリスのことを心配する内容がつらつらと書かれていた。
ああ、こんなにも自分のことを心配してくれる人がいたなんて……、と改めて感動を覚える反面、読み進めていくうちに手紙の内容は微妙な方向へと続いていく。
「……」
エルフェリスの眉間に皺が寄り、次いで唇が尖り始める。
……司祭め、私が知らないと思って。
恐らくはエルフェリスの目に触れることになろうとは微塵も思ってはいなかったのだろうが、やれエルは早とちりだの、向こう見ずだの、なんだのかんだの。読み進めるに連れて、さすがのエルフェリスもペコペコに凹むほど、そこには色々好き勝手書かれていた。
くっそー。
ひどいよ、こんな風に書かなくたって良いじゃんよ。
しかもよりによってロイズハルトに宛てて書かなくたって良いじゃんよ!
そんな風に思いながら密かに怒りに手を震わせていると、わずかに苦笑いのロイズハルトが「そこじゃない。その先だ」と続きを促してきた。
「先?」
手紙の内容に完全にヘソを曲げたエルフェリスは、そう言ったロイズハルトに対しても口を尖らせて、ふてくされたように答えた。
この手紙の先にこれ以上何が書いてあるんだ。さもそう言いたげに吐き捨てる。
けれどもロイズハルトがわざわざ陰口の書かれたものを見せるわけもなく、一体何を私に見せたいのだろうと怪訝に思いながら、その先へと目を走らせた。
その間もロイズハルトは何も言わず、ただエルフェリスを見つめている。
何だろう。一体何の手紙なの?
カチコチと時を刻む時計の音だけが、室内を支配していた。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……!」
複数枚に渡った内の三枚目に差し掛かったところで、エルフェリスは一度目を止めた。そして再び二枚目の終わりから読み直す。
「……なにこれ……。どういうこと……?」
なおも先を読み進めながら、無意識にそう呟いていた。
そして一通り読み終えた後に再び、今度は自発的にそう呟く。
するとロイズハルトは腕組みをしたまま片手を顎に持っていくと、小さくむうと頷いて、ソファに身を沈めた。
「ハンターが単独でこの城を見つけることは不可能なはずだ。それなのにこれはどうしたことかと思ってね。彼らと接したことのあるエルなら或いは何か知っているのではと思って読んでもらったわけだが……やはり解らないか」
じっとエルフェリスから目線を外すことなくロイズハルトはそう言うと、ゆっくりと息を吸って、それからそれを大きく吐き出した。
「解らない。だって村を出る何日か前に話した時は、デストロイはこの城がどこにあるのかすら見当も付かないってぼやいてた……! それなのにこんな数ヶ月で……どうしてだろう」
どうしてだろう。ひどく心が動揺していた。
いつの間に、この城での日常を心地良く感じるようになってしまったのだろう。
この城での生活を、壊されたくないと感じるようになってしまったのだろう。
初めはあんなに怖くて、無理やり強がってみせていたのに、いつの間にこんなにも慣れてしまったのだろう。
そう思うほどに、エルフェリスはヴァンパイアという異形の中に溶け込んでしまっていた。
けれど、だからこそ余計に、この司祭からの手紙を黙って見過ごすことなどできないのだ。
デストロイが……ハンターのあの男が居城への手掛りを手に入れたと言って村を発ったというのだから。
これは黙って見過ごすわけにはいかない。
「どうして……どういうことなの……?」
回らない頭の中で何とか納得できる答えを探そうと、何度も何度も考えをめぐらせる。
けれどもいくら考えようとも他人の、それも名を馳せたハンターの考えなど知り得るわけがなく、エルフェリスはどうしたものかと項垂れるしかなかった。
「どうするの? ロイズ……。これが本当だとしたら、デストロイはきっとここを突き止めるよ? そういう男だもん……そういう男だよ」
勝気に笑うデストロイの姿を思い浮かべながら、エルフェリスは呆然と呟いた。
自分たち人間でさえ、彼の功績には恐怖すら感じていた。それも一度や二度のことじゃない。
ヴァンパイア狩りに出掛ける度におびただしい量の返り血を浴びて帰ってくるあの男の姿に、誰もが戦慄を覚えたことだろう。
洗い流せばすぐに落ちる血も残像として残るほどに、真っ赤に染まったデストロイの身体はことあるごとにあの時の戦慄を呼び覚ます。
この居城の場所が公になってしまったら、デストロイはおろか他のハンターたちも一斉に雪崩れ込んで来るだろう。そんな事態になってしまっては……。
その先のことは想像するだけで心臓が抉られるようだ。
「どうするか……か」
しばしの静寂を経て、長い溜め息と共にロイズハルトが吐き出した言葉は、思いのほか明るく響いて消えていった。
「その時はもちろん迎え撃つまでさ。理由無く刃を向けられては、こちらとしても黙っているわけにはいかないだろう?」
そしてふっとその顔に浮かべる笑み。
それをどこか客観的に見つめながらも、それでも心に迫る危機感は拭えない。
「……そうだけど……それしか方法は無いの?」
「まあ、今までのことを考えれば無いだろうな。ハンターには盟約も何も通用しない。ハンターたちも言ってみればヘヴンリー率いる急進派と同じようなものだからな」
こんな時に冗談を交えて笑うロイズハルトを見ると、今のところはそんなに差し迫った状況ではないのだろう。
けれどエルフェリスはデストロイという男のことをよく知っているだけに、胸騒ぎがしてならない。
大丈夫、で終わらせられるものならば、こんなに体が震えたりしない。
こんなに……不安になったりしない。
「で、エル。どうする?」
「え?」
唐突にロイズハルトから切り出された問い掛けに、エルフェリスははっと顔を上げた。
どうする?
「……何が?」
真意が分からずに、エルフェリスは目を丸くしたまま首を傾げた。すると真っ直ぐこちらを見据えるロイズハルトの視線とエルフェリスの視線が交差する。
ずくんと一回、鼓動した。
「ここに残るのか、それとも村に帰るのか……どうするかと聞いているんだ」
「……村に……帰る?」
思ってもみなかったロイズハルトの質問に、エルフェリスはよく話が飲み込めなくて、なおも聞き返していた。
どうしてこの時点でそのような話が出てくるのか、そこからしてすでに疑問だった。理解しろと言われても、到底理解できない。
「帰るって……何で?」
ロイズハルトの意図が分からない。どうしてそのような話に発展するのかも。
ゆらりゆらりと揺れる蝋燭の炎のように、エルフェリスの心もゆらゆら揺れる。
「今はそんなこと話してる時じゃない」
俯き加減のままぼそりとそう言うエルフェリスに、ロイズハルトは天を仰いで、そうだな、と頷いた。
「それはそうなんだが……」
そしてそのまま先を進めようと口を開く。
「あながち無関係と言うわけでもないんだ。エルを預かる条件として、行方知れずの捜し人の手掛りを掴むまで、というのがあった。それともう一つ。ゲイル司祭はくれぐれも生身でエルを帰して欲しいと強く望んでいた。条件の一つはすでに昨夜果たせたと思っている。そしてもう一つは……正直この先保証は無い。ゲイル司祭は我々の迷惑にならないようならば、その後の身の振り方はエルに一任すると言っていた。だから俺はその申し出に従い、今エルに尋ねている。今後どうするのか……考えておいてもらいたい」
迷いの無い、はっきりとした口調でロイズハルトはそう言うと、ソファから立ち上がり、傍らに置かれた棚の中からボトルを一本とグラスを二つ取り出して、片手にグラスを持ち直すと器用にボトルの中身を注いでいった。
グラスに溜まっていく淡色の液体から、微かに甘い香りが立ち上ぼる。
「酒じゃないから。白葡萄。好きだろう?」
ソファに再び座り直してから、ロイズハルトはグラスの一つをエルフェリスの前に差し出した。十分に熟した葡萄の香りに、吸い込む息も思わず深まる。
「うん、好き」
兎にも角にも一呼吸置こうとグラスに手を伸ばし、ゆっくり口付ける。
冷たい透明のグラスから流れ込んでくるその液体は、まるで摘み立ての実をそのまま口へ放り込んだかのように爽やかで、濃厚な味わいを再現していた。
わずかに舌がピリピリするのは、ソーダでも入っているからなのだろう。
久々に味わう芳醇な香りに、思わず溜め息が零れた。
「……美味しい」
素直にそう思った。こんなに美味しいジュースはいまだかつて口にしたことはなく、驚きと喜びを含んだままエルフェリスはそう呟いていた。
「そうか、良かった」
対するロイズハルトもにこやかに微笑んで、グラスの中身を少しずつあおる。
先ほどまでの緊迫感が嘘のように、一転した空気に溶けていった。
「とにかく……」
やがて少しの沈黙を挟んで口を開いたロイズハルトにエルフェリスが注目する。
「一度近況報告も兼ねて、ゲイル司祭の元へ赴こうと思っている。その時までにはとりあえずで良いから返事が欲しい」
「……うん……って、えぇっ?」
あまりにもさらっと言うロイズハルトの調子に危うく聞き流してしまいそうになったが、今、何か物凄いことを言わなかっただろうか。
「今……何て言った?」
絶対に聞き間違いだと思った。だから改めてもう一度聞き直す。
それでも返ってきた言葉はやはり先ほどと同じだった。聞き間違いなどではない。
エルフェリスは思わず立ち上がっていた。
「そんな……危ないよ! 村へ行くだなんて! あそこにはデストロイや他のハンターがたくさんいるんだよ? 殺されちゃうよ!」
思わぬロイズハルトの言葉に驚愕するあまり、エルフェリスは声を荒げていた。
だってそうだろう?
デストロイやハンターたちが何よりも欲しがっているのはシードの命だというのに、ロイズハルトはそんな場所に自ら出向くと言っているのだ。
人間のエルフェリスがこんなことを言うことがすでにおかしいのかもしれないが、どう考えても狂気の沙汰としか思えない。
みすみす敵の中心に飛び込んで行こうとするなんて……彼は一体何を考えているのだろう。
「見つかったら殺されちゃう……」
それだけは思い留まって欲しいとエルフェリスはロイズハルトに対してもう一度制止の言葉を投げ掛けた。
けれども彼は何ら表情を曇らせることなく微笑んでいる。
「大丈夫だ。あの村には過去に何度も行っている」
「は?」
眩暈がした。