十 残 十086話 揺らぐ心(1)【恋愛ダークファンタジー小説】

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 今ならばまだ間に合うと思ったその時にはもうすでに手遅れだったりすることが、生きている上ではしばしばある。

 気付かぬうちに相手の手の中にじわりじわりと追い詰められて、気付いた時にはかごの中の鳥。

 見えないおりの中はたくみに仕掛けられた罠だらけ。掛かったら最後、逃げ出すことは容易ではなくなる。

 エルフェリスは今まさにそんな中にあって、もがいている鳥と同じようなものだった。

 けれど絶対に諦めたりしない。たとえ翼を引き千切られたとしても、絶対に逃げ切ってみせる。

 手早く身支度を整えて、それから改めて室内をぐるりと見回した。それまでの生活感の伺える、それなりの部屋。

 眩しい光の差し込む窓からは、儚く崩れ落ちたヴィーダの風景が広く見て取れた。

 けれど、ただただ景色を眺めるように窓辺にたたずみつつも、時おり出入り口の方に目を走らせるのを忘れない。

 一、二、三……。

 明らかに武装したハンターの男たちが建物の影に隠れるようにして談笑にふけっていた。

 まったく知らない男たちだったけれど、どうせ姿をくらますのなら誰の目にも触れずに消えたかった。

 うっかりハンターのお供を伴ってシードたちの元へ帰ったなんてことになったらさすがに笑えない。

 いくら個人行動が基本のハンターとはいえ、連携を取らねばならない時にいては互いに情報交換も密にすることくらい知っていた。

 だからきっと、カイルが遺体安置所で“神官の女を保護した”という情報も、ヴィーダに集うハンターの間では周知の事実となっているだろう。

 問題は、一体どこまで詳しく伝えられているか、だが……。

 相手が相手だけに楽観視はできなかった。

 カイルはデストロイと違って単純な男ではない。

 自身は出掛けたように思わせて、こっそりエルフェリスに監視を付けていてもおかしくはないのだ。

 そうなると、やはり真表まおもてから「さようなら~」というわけにはいかなくなる。

「さて、どうしよう」

 くるりと窓辺に背を向けて、それから腕組みをしたまま室内をゆっくりと見回した。

 ベッドが一つ。それから無造作に物が積み上げられているテーブル。壁際には倒れた本棚。物が散乱する絨毯の床。

 他に出られそうな所というと、やはり部屋の外へと繋がるドアしか見当たらなかった。

 窓という窓は他に無さそうだし……。

 誰もいないのであればこの窓から出てしまおうとも思ったけれど、そこに人がいる以上、やはり表から出た方が自然というものだろう。

 わざわざロープを伝って窓から出て来る人間がいたら、それがたとえ女であっても刃を突き付けられるであろうことは想像するに容易い。

「仕方ない」

 手早く荷物を纏めて外に出てしまおうと、エルフェリスはすぐに行動に移ることにした。とはいっても荷物なんてほとんど無きに等しかったのだが……。

「……あれ?」

 それにもかかわらず、無くてはならないはずの物が見当たらなかった。

「あれれ?」

 そんなはずはないと、辺りを何度も何度も見回す。
 見回したり、その辺を掻き分けたり、自分の身体の隅から隅までを触って調べたり。

 それなのに、無い。

「え……何で……? 落とした?」

 そんなことはあり得ないと思いながらも、エルフェリスな心は不安の念にとらわれていく。

 よりにもよって魔法のワンドが見つからないのだ。

 あれが無ければエルフェリスの神聖魔法の力を最大限に生かすこともできない。

 それに万が一に際しては本当に無くてはならないものであるだけに、そのワンドが見当たらないということはかつてない動揺をエルフェリスにもたらした。

 失くしたまま置き去って行くという選択肢はない。

 二度と与えられることの無い、特別な洗礼を施した聖なる錫杖ワンド

 それはエルフェリスが正当な神聖魔法使いであるという唯一の証。

 ワンドを持たない神聖魔法使いエルフェリスになど、教会にんげん側は何の価値も見出さないだろう。

 聖なる杖を与えられた特別な聖職者であるからこそ、ヴァンパイアと共に行動することを黙認されているのだ。

 取り戻さないことには、たとえこの場から無事逃れることができてもその先の未来は無い。

 さっと血の気の引く感覚に、目の前が真っ白にかすみ掛かっていくようだった。

 そして何より、カイルが再び戻って来たその時にはもう身動きが取れなくなってしまうかもしれない現実に、エルフェリスの焦りはよりいっそう募っていくばかりだった。

「……どうしよう。あれが無いと出るに出られないじゃん」

 そこら辺の調度品の陰を探しても、ベッドの布団を引っぺがしてもどこにもその姿はなく、いよいよエルフェリスは八方塞りな状況に飲み込まれようとしていた。

 何でもいい。

 両手で瞳を覆い、何とか思い出そうと必死にぐちゃぐちゃに絡まった脳内を探った。

 たとえ居城に戻れたとしても、ワンド無しで自分の身を守れるだろうか。得体の知れない輩に襲われても、その魔法は力を発揮するのだろうか。

 ヘヴンリー、正体不明の禁術使い、放たれるアンデッド。

 どう考えても、満足に戦う力の無いエルフェリスはシードにとってもただの足手まといにしかならない。自分という存在が、彼らを永劫えいごうの光の彼方へ消し去ってしまうかもしれない。

 そうなれば、あの城に戻ることはできなくなる。

 ――シードに、逢えなくなる。

 固く閉ざした瞳の中に、ロイズハルトの後ろ姿が浮かんで消えていった。

 ちょうどそんな時。

『エル。聞こえたら応答してくれないか? ロイズだ』

 闇を切り裂くようなその声に、エルフェリスは瞬時にはっとして、すぐさま自分の右手へと目を落とした。と同時に、正体の解らない熱い想いが心の中にじわじわと広がっていくのを感じる。

『ロイズ! 聞こえてるよ。無事なの?』

 頭の中に響き渡るロイズハルトの問い掛けに、できる限り元気良く答えながらも、ピンクにきらめく銀の指輪が少しだけにじんで見えるのはなぜだろう。

 この声が聞こえるだけで、ひどく安心できるのはどうしてだろうとエルフェリスは困惑した。

『無事か……って……。それはこっちのセリフだ! お前の置かれている状況の少しは把握しているつもりだが……大丈夫なのか?』

 人の心配ばかりしている状況じゃないのはそっちだって同じじゃないか。

 それなのに、気遣いばかりが伝わる優しい声音に思わず涙が一粒零れて、落ちた。

 嫌だ……何泣いてるんだろう、私。

 心臓をギュッと握り締められたように苦しくて、そして切ない。

 けれどそれにもかかわらず、エルフェリスは口元に笑みを浮かべていた。

『あは……平気。でもちょっと面倒なことになりそうなんだ。なんとかして早いとこヴィーダを抜け出したいんだけど……』
『あまり危険なようなら無理はするな。不本意であったとしても、時には流れに身を任せることも打開策の一つと成り得る』
『うん……でもどうしても居城に帰らなきゃならない理由が増えちゃったんだ。……実はね……』

 今後がどう転ぶか分からない。

 だから今ここで、ヴィーダ襲撃の陰にアンデッドの存在があったことをロイズハルトに伝えようとした。

 けれどその矢先、部屋の外に誰かの気配を感じてエルフェリスはとっさに意識をそちらへと向ける。

 聞き覚えのある足音に、エルフェリスはすぐさま脱出の機会を失ったことに気が付いた。

 でももう遅い。

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