【残010話】三人のシードヴァンパイア

 時が止まるようだ。
 という表現を、今使わずしていつ使うのだろう。
 エルフェリスは今、そんな心境にあった。
 呼吸を忘れた身体。
 苦しいはずなのに平気だ。
 酸素を失っても、きっと気付かずに生き続けるのだろう。
 そんな衝撃。

「エル……エルフェリス!」

 名前を呼ばれてはっと我に返った。その途端に、モノクロームで覆われていた視界にさぁっと色が戻る。

 深紅のクロスに白い薔薇。そして目の前に並んで自分を見ている“六つの瞳”。

 先ほどまでには無かった濁りのない三つの色が、じっとこちらを見つめていた。

「ご挨拶を、エル」

 司祭にそう促されて、会議がすでに始まっていたのだと悟った。

 エルフェリスは慌てて立ち上がり挨拶をしたものの、少しの動揺が行動と言葉に大きく出てしまった。

 立ち上がる際に勢いが付きすぎた結果、掛けていた重厚な椅子は大きな音とともに倒れ、それを見てさらに動揺したエルフェリスは名前から何からを嚙みまくり、一堂に会していた面々は一瞬息を詰めた後それぞれに爆笑したり、失笑したりと思い思いの反応を遠慮なく見せた。

 厳かな雰囲気で充満していたはずのそれまでの空気を見事なまでにぶち壊し、爆笑や冷笑が容赦ない刃となってエルフェリスの上に降り注ぐ。

 さっそくやってしまったと項垂うなだれるエルフェリスと同様に、ゲイル司祭も思わず片手で顔を覆って溜め息を吐いた。

「いいねぇ、今回は初っ端から重くなくて。ずいぶん面白い娘連れて来たじゃん、ゲイル司祭」

 一際大声を上げて笑い転げた後、親しげに司祭へ顔を向けたそのシードは、一般的に線が細いといわれるヴァンパイアの中では珍しくしっかりとした体つきをしていた。腰を下ろしているので実際はどれほどあるのか分からないものの、この部屋に集う者たちより頭一つ飛び出ているところを見るとかなりの長身であることが想像される。

 ヴァンパイア、特にシードといえば優美で優雅な風体であり、また当人たちもそれを好んでいるというのが世の中の通説となっているはずなのに、今目の前で目を細めているこの男にはこの常識がまったくと言っていいほど当てはまらなかった。もちろん容姿に関しては文句のつけようもないのだが……要するにどこか異端なのだ。

 腰まで届くのではないかと思うほどの髪は背中に向けて派手に散らすようにセットされており、それは美しい魔性の生き物というよりは、野性味溢れる獣のたてがみを連想させる。大胆に着崩した服装は大柄ゆえに窮屈なのか、それともただ単にだらしがないのか、他のシード同様黒系で纏められてはいたものの、男の圧倒的な存在感をより一層強固なものとしているようだった。

 闇に紛れて夜を舞う同族とは明らかに一線を画しているであろうそのいでたちは、まるで己の存在を自ら世間の目に晒そうとしているかのように感じた。

 血の通わない化け物と恐れられているはずのヴァンパイアから、人間さえも超越するほどの生命力を感じて、刹那せつな背中を駆け抜けた寒気にエルフェリスは思わず身を震わせた。

 一方の男の方は、ついさっきまでのダメージをよそに、無遠慮なまでにまじまじと視線を投げ付けてくるエルフェリスに自分を観察されていると気が付いていた。深いセピアゴールドの瞳を意味ありげに細めてくっと口角を吊り上げると、一生懸命に彼を凝視しているエルフェリスに向けてウィンクを一つしてみせる。

が。

「肌……しっろ」
「あぁっ? 何だとコラっ!」

 男のあまりの肌の白さに驚いて、うっかりそう呟いたエルフェリスに対して、男は間髪入れずに口をひん曲げた。

 しかしエルフェリスが漏らした感想は決して間違いではない。雪のような、白磁はくじのような、なんて比喩ひゆも必要のないほどその男の肌は白く、ともすれば背景をも透かしてしまうのではないかと思えるほどであった。

 あえて例えるならば……目の前に活けてある白い薔薇の色、といったところか。

 当の本人は至極しごく面白くなさそうな顔をしていたが、彼の隣ではもう一人のシードヴァンパイアが二人のやり取りに小さく肩を震わせていた。

「くす。言われちゃったね、デューン」

 かたやこちらは向かって左側、まだあどけなさの残る顔で少年がくすくすと笑った。

 果たして本当の年齢はどれほどのものなのか見当も付かないが、外見だけで言えばエルフェリスと同じくらいか、少しばかり下の年頃だろうか。角度によって微妙に色を変えるアイスブルーの瞳はきらきら輝く宝石箱のようで、エルフェリスはすっかり魅入られしばし時を忘れた。

「僕はレイフィール。そしてアイツはデューンヴァイス。失礼なのは生まれつきだから、あまり気にしないで」
「なんだと!」

 己の紹介内容に血相を変えた大柄男デューンヴァイスに掴み掛られても表情一つ乱さず、レイフィールと名乗ったその少年はきれいな瞳を悪戯っぽく細めると、ぽかんと口を開けたまま動かなくなったエルフェリスににっこりと微笑んだ。

 それがまた脳に刺激を与えたようで、エルフェリスははっと我に返るとレイフィールにつられるように、しかしこちらは何ともぎこちない笑みで答えた。

 無理もない。にこにこできらきら。何気に毒舌だが……とにかく可愛いのだ。

 見た目同世代のレイフィールにこんなことを言ったら怒られてしまうかもしれないが、ずっと見つめていると彼の周りに星の瞬きが見えるようだ。

 レイフィールは男性にしては少々小柄であり、まさに少年から青年への過渡期といった体つきではあったものの、顔色も良くやたらと生き生きしていて、衣装こそいかにもだったがそれ以外はあまりヴァンパイアだという印象を受けない。

 普通にエルフェリスたちの暮らす村を歩いていても、彼がヴァンパイアだと気づく者などいないだろう。それほどまでにレイフィールというシードヴァンパイアは人間により近い風体をしていた。

 その冴えるような美貌を闇のベールに溶け込ませながら、夜ごと人の生き血をすすって生き永らえるヴァンパイア。

 エルフェリスが今まで見たことのあるヴァンパイアはハイブリッドのみではあったが、誰も彼もがその表情さえも冷たい闇に支配されているように思えてならなかった。

 非情なまでの美しい顔に、非情なまでの残酷な笑み。それがそれまでのヴァンパイアのイメージだった。エルフェリスにとっても、他の人間たちにとっても。

 それなのにどうだろう。デューンヴァイスと呼ばれた大柄な色白男は少年の挑発に烈火の如く怒り狂い、レイフィールと名乗った少年ヴァンパイアは小悪魔のように可愛い姿でそれをあしらっては、ころころと楽しそうに笑っている。

 そんな二人の掛け合いを注意深く見つめながらも、エルフェリスは少しずつ自身の調子を狂わされていくような居心地の悪さを感じていた。

 なんだかここへ来てからどうも変だ。伝え聞く噂とは異なる世界。異なる者たち。自分の中の常識が崩れ去っていくイメージに、足元がすくわれそうになる。

 しかし思考の迷路に足を踏み入れかけたところで急速にエルフェリスは現実に引き戻された。

 ゆらゆらと揺れていたエルフェリスの視界の中を一つの色がさりげなく、けれども強烈に掠めていったのだ。
 
 それはまるで引力でも備わっているかのように、半ば強制的にエルフェリスの視線を引き付けてやまなかった。

 三人のシードの中でもっとも上手に腰掛けていた男。それまでずっと一切の口をつぐみ、俯き加減に事の成り行きを見守っていた男の瞳であった。

「……」
「……」

 いまだに他の二人のシードによる掛け合いは続いていたが、エルフェリスはその男の瞳に囚われたまま動けなくなっていた。どちらも無言で互いの瞳の先を覗き込むように見つめ合う。

 その間は恐らく一瞬だったのかもしれない。けれど息苦しさを覚えるほどに、エルフェリスには永劫えいごうの時間のように感じられた。

 ふと男が視線を逸らしたことでその呪縛から逃れたものの、エルフェリスは得体の知れない恐怖を味わっていた。

 この男だけは他のヴァンパイアとは違うと……。

 真っ直ぐ相手を射抜くようなダークアメジストの瞳は、気を抜けば一瞬にして吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥ってしまう。

 三人のシードの中でもっとも目を惹いたのもこの男だ。その目に抵抗しようとすればするほど、見えない何かに心臓を押し潰されそうになって苦しくなる。

 冷たい冷たい、氷のような瞳に。

 にわかに青ざめていくエルフェリスを男はそっと見つめていたが、一度ゆっくりとまばたきをすると音も立てずに立ち上がり、この場に集った一同を見回して三者会議の始まりを高らかに宣言した。

「私はロイズハルト。リーゼン=ゲイル司祭、そして従者エルフェリス。遠いところをわざわざご足労いただき感謝する。これより共存の盟約再締結のための三者会議を始める」

 若々しくも威厳のある声が広間に響き渡る度に、エルフェリスの心はなぜか異常なほどざわついた。

 ダークアメジストの瞳。
 白い薔薇。


 劇薬のような甘い香りに、気が遠くなりそうだった。

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