✚残012話 共存の盟約(2)✚
「リーディアは反対のようだけど、ゲイル司祭としてはどう?」
押し黙ったまま一点を見つめ思案するエルフェリスをよそに、無邪気に明るい声色でそう司祭に意見を求めたのは、シードヴァンパイアのレイフィールだった。
彼はこの議題に対して両者がどのような結論を出すのか興味津々のようで、そのアイスブルーの大きな瞳をきらきら輝かせながら司祭の答えを待っていた。
「レイフィール様! そのようなこと聞かずともこのような愚論……!」
「まぁまぁ良いじゃん。すぱっと終わったらつまらないでしょ? せっかくの会議なんだし、聞いてみるだけ!」
難しい表情で何とかこの議題を逸らそうとするリーディアに対して、レイフィールは「ね? お願い」と胸の前で両手を組むと、とどめとばかりに眉尻を下げながら上目遣いで瞬きを繰り返した。
それにはさすがのリーディアも、それ以上口を挟むわけにはいかなくなったようだ。長めの溜息の後片手で額を抑えて、そのまま静かに目を閉じる。
その様子を穏やかに見守った後、司祭はほっと息を吐いて、それからピンと張り詰めた空気の中を、ゆったりと流れるような口調で答えた。
「そうですね……。ヘヴンリー殿の提案ですが……以前我々は譲歩に譲歩を重ねてあなた方の条件を飲みました。結果、広げても広げずともハイブリッドによる侵食は後を絶たず、我々は常に安全なはずの土地においても怯えなくてはならない生活を強いられている。それにあなた方が考えるほど人間の数は多いとも少ないとも言えない現状を考慮しても、これ以上範囲を広げることは不可能だ」
まあ、当然の答えだろうとエルフェリスは心の内で頷いた。
十数年前、彼女の物心が付くか付かないか、そんな頃に開催された三者会議も荒れに荒れた会議であったと言われていた。
あの頃はシードもまだ数多く健在で、どちらかと言えばヴァンパイア優勢の世の中にあった当時は、会議に出てくるシードもなかなか話を聞いてくれるような人物ではなかったと先代の司祭が嘆いていた姿をエルフェリスは今でもよく覚えていた。
そんなヴァンパイアたちに圧しに圧されて彼らの領土拡大を承認せざるを得なかった前々回の三者会議。くしくもその時広げられた領内で姉エリーゼは恐らくシードヴァンパイアと出会って、そして消えた……。
これも何かの因果なのだろうか。エルフェリスを惑わすように、蝋燭の炎がゆらりゆらりと音も立てずに揺らめく。
それと同時に。
「エルフェリスとやら。お前はどう思う?」
突然話を振られてエルフェリスがはっと顔を上げると、頬杖を付いたロイズハルトと目が合った。
「え……あの……」
「聴いていなかったのか。ヘヴンリーは我々の領土拡大を提示しているが、お前はどう考えるか、と聞いているんだ」
そう言うと、ロイズハルトは深い紫暗の瞳を細めて唇から覗く鋭い牙を隠そうともせずににやりと笑った。
まさか形ばかりの同席者である自分に意見を問われる場面が回って来るとは思いもせず、議題の内容を一つ一つ頭の中で分析し、少しでも自分たちの置かれている状況を把握しようとしていたエルフェリスは、そんなロイズハルトの顔をどこか呆然と見つめると同時に、どうしてここで自分の意見が必要なのだろうと首をひねった。
彼はヴァンパイア。それに対して自分は人間だ。
領土の拡大は彼らシードにとっても利点しかないはずで、本来ならば手放しに賛成するのが当たり前だと思うのはエルフェリス一人ではないだろう。普通に考えても反対意見しか出ないのは向こうとしても予測済みだろうに、なぜここで意見を求めるのだ。どんな思惑が隠されているのか。
エルフェリスはにわかに巻き込まれていく自分を落ち着かせるように、敢えて無言を貫いた。
だが、追随の手は止まらない。
「発言許すってさ。何でもいいから言ってみなよ」
レイフィールもにこにこ微笑みながらエルフェリスに意見を催促する。
予想外の展開に、エルフェリスはなおも戸惑いながら議場の面々を一人ずつ見回した。
ゲイル司祭もわずかに唇を噛み締めて、注意深くエルフェリスに目配せしてくる。
そんな中を。
「エルフェリス様。遠慮はいりませんわ!」
リーディアまでもがエルフェリスをけしかけた。
自分の発言に効力が無いのを分かって、みんなでからかっているのだろうか。エルフェリスがそんなことを考えていると。
「エルフェリス。意見を」
絶対的な束縛の目で、ロイズハルトがエルフェリスを射抜いた。
その瞬間、彼女の中で何かの箍が外れる音がした。長らく錆びついて動かなかった何かが。
それをきっかけとして、嫌に乾いて不快な喉を潤すようにごくりと唾を飲み込むと、エルフェリスは意を決したようにゆっくりと唇を開いた。
「私たち人間に……ことごとく死ねと言うのなら、―—反対はしない」
その言葉と同時にロイズハルトの瞳がきらりと光って、それから楽しそうに細められる。レイフィールもデューンヴァイスもなぜか一様にエルフェリスの発言に満足したように頷いた。
「人間がいなくなって困るのはあんたたちヴァンパイアの方でしょ? 一緒に心中したいならいくらでもどうぞ。私はお断りだけど」
この際だ。どうせならもう一言言ってしまえと開き直ったエルフェリスの暴言とも捉えられるような意見に、発言を求めたヴァンパイアたちもさすがに面食らった顔を一瞬見せた。
だがすぐに耐え切れなくなって、シードの三人に至っては一斉に腹を抱えて笑い出した。
「お前おもしろいな、サイコー!」
「ホントホント! ロイズ相手にこんな物言いする人間久しぶりだね!」
手を叩いて喜ぶデューンヴァイスに対して、レイフィールも大口を開けて賛同する。
そしてロイズハルト。さっきまで冷たく鋭い顔をしていたのに、目の前で笑う彼はまるで美しい絵画に描かれている天使のようだった。
なんて表情をするのだろう。
一瞬で、エルフェリスの視界すべてを奪い尽くす彼の笑顔。
「……?」
頭の奥に霞がかかるような感覚を覚えて密かに首を捻るエルフェリスをよそに、その後もしばらくシードの三人は笑いっぱなしで、リーディアもどうやら笑いを堪えている様子だった。司祭に至っては、随分と複雑な表情で見事大役を果たしたエルフェリスに笑いかけている。
……怖い。
そしてヘヴンリーは一人、不機嫌そうな顔をさらに深めていった。
「さて、エルフェリスはそういう意見のようだが、司祭も同じでよろしいのか?」
いまだ笑いを引きずったままのロイズハルトが仄暗い笑みを湛える司祭にそう尋ねると、ゲイル司祭は一転にっこり笑って頷いた。
「概ねはね。ただちょっと……言葉が悪かったですね」
「―――いッ……ッ!」
突如、ヴァンパイアたちには見えない箇所をゲイル司祭に思いっきり抓られて、エルフェリスは声にならない悲鳴を上げた。
すぐさま涙目で司祭に非難の眼差しを向けてはみたものの、「どうした?」とばかりの笑顔が向けられる。
なんという悪魔の笑顔!
この笑顔は偽りだと叫び出したい気持ちをぐっと抑えて痛みをやり過ごそうとするも、なんとなくエルフェリスと司祭のやり取りを感じ取ったシードたちはまた笑い出す始末。ピリピリと張り詰め通しだった場の空気はすっかり打ち壊されてしまった。
「どうすんだ? ヘヴンリー。人間側はそう言ってるぜ? ここにいる全員を納得させられるような主張があるのなら、聞いてやるが」
目尻に溜まった涙を指で拭いながら、デューンヴァイスがにやりと笑う。
「僕も別に今のままで良いんだけど? 誰かさんみたいに飢えてるわけじゃないしー」
小悪魔のように微笑むレイフィール。そして最後にロイズハルトによってとどめが刺されるのは想像済みだ。
「分が悪いな、ヘヴンリー。今回は見送ってはもらえないか?」
圧倒的な圧力を感じるその瞳に、さすがのヘヴンリーも唇を噛み締めただ頷くしかなかったようだ。
シードを超えるには、まだまだ彼では力不足。シードらのヘヴンリーに対する視線からは、そんな雰囲気すら漂っていた。
「……分かりました」
しばらくの沈黙の後、ヘヴンリーは突然立ち上がって面倒くさそうにそう言った。そして会議中であるにもかかわらず広間の扉に向かって歩き出し、躊躇うことなく大きな扉を押し開ける。
「盟約と、我らの発展を祈って」
去り際、わずかに振り返ったヘヴンリーははっきりとした声でそう言うと、さっさと広間を後にした。
彼の足音が聞こえなくなるまで誰一人、その口を開こうとする者はいなかった。
不敵に笑う者、何かを思案する者、目を伏せて祈りを捧げる者。様々な思いが交錯する中を、誰かの吐いた溜め息がひどく響いて消えていった。
ヘヴンリーがあっさり引き下がったことで、その後の三者会議は特に何事もなくスムーズに終結することとなった。今回は内容に大きな変更も無く、ただただハイブリッドやハンターによる盟約違反を減少させるための相互努力を再確認しての閉幕となり、エルフェリスもゲイル司祭も無意識に安堵の溜め息を何度も吐き出した。
なぜシードやリーディアが人間側の擁護に回ったのかは最後まで分からなかったが、こちら側に優勢に終わったのだからあまり気にすることではないだろう、と久しぶりの酒を味わいながら司祭は胸を撫で下ろしていた。
確かにそうだが、そこにはヴァンパイアなりの思惑があったのだろうとエルフェリスは推測している。
シードヴァンパイアと、同じハイブリッドなのに意見を違えるリーディアとヘヴンリー。
自ら望んで片足を突っ込んだ世界はまだまだ未知だらけ。けれど、エルフェリスにとってはこれからが勝負だ。
たとえその先が漆黒の闇の世界だとしても。