【残033話】手がかりと甘い罠(6)

 その後、デューンヴァイスの部屋を一足先に出たエルフェリスは一人、部屋が立ち並ぶ回廊に備え付けられた広いバルコニーの手すりに漠然と身を預けたまま、ゆっくりと昇りゆく太陽を見つめていた。

 この城に来てからはヴァンパイアの生活に合わせていたために、太陽の光を浴びるのは本当に久しぶりだった。こんなに眩しくて、こんなに熱いものだったのかと身をもって改めて感じていると、鬱屈うっくつとしていた感情が少しだけ和らいでいくようだった。

 人間はこの光がなければ生きていけない。この光に育てられ、この光に生かされている。

 けれどヴァンパイアにとって太陽は、その身を滅ぼすものでしかない。いかに力のある者でも、太陽の前ではただの赤子同然。時に神に例えられるあの光の塊も、やはりヴァンパイアの存在を許しはしないのだろう。

「はあ……」

 色々なことがあり過ぎて、心底疲れた身体が太陽の前で弱音を吐き出した。したくてしているわけではないのだが、気が付けば溜め息ばかりがついて出る。

 自分は臆病で、そのくせ強がりで、覚悟したはずなのに目の前に付き付けられた現実からいつも逃げようとしてしまう。思い通りにならない感情に腹が立って、自分を上手くコントロールできない未熟さに情けなくなって、エルフェリスはまたもや長い溜め息とともにがっくりと項垂うなだれた。

 こんなでは……たとえエリーゼと再会できたとしても、ぶん殴るなんて芸当は到底できそうもない。自嘲の笑みがふと零れた。

 その時、背後から何かを激しく叩く音がして、エルフェリスは慌てて後ろを振り返った。こんなに陽が高くなっている時分に何事だろう、と警戒しながら。

 しかし。

「エールーッ!」

 振り向いた先にある回廊の向こうから、エルフェリスの名を呼ぶ者がドンドンと激しく遮光のガラスを叩いているのが見て取れた。あっと思って近付くと、そこにはロイズハルトとレイフィールが立っていた。

 ロイズハルトは背中を壁に預けて俯いている。一方のレイフィールは窓にびったり張り付いて、しきりに開け放たれたままの窓を指差していた。

「どうしたの? 二人とも」

 二人揃って何だろうと不思議に思いながらも、エルフェリスは明るいバルコニーから暗い回廊へと足早に戻ると、二人の元へと歩を進めた。目が慣れないせいか、二人の顔がよく見えない。

「ちょーっとエルッ! ここ閉めてくれないと通れないじゃんッ! ほら見てよ」

 レイフィールが顔を真っ赤にしながら指さす先を、エルフェリスの視線がなぞるように追いかけていく。

「あ……」

 朝の光が、開いた窓から回廊の壁まで絨毯を引かれたように隙間なく伸びていた。

「これじゃ通れないよー! ここ通らないと部屋に戻れないのにぃ!」

 わあわあわめくレイフィールは、「早く閉めてぇ!」と駄々っ子のように拳をぶんぶん振って、エルフェリスに抗議の声を上げていた。

 そうなのだ。この回廊の先にあるのはデューンヴァイスの私室と階下に繋がる階段のみで、そこに至るまでの間に通路はない。だからこの通路を太陽の光で塞がれては、ヴァンパイアであるロイズハルトとレイフィールの二人は灰にでもならない限り通れない。

 うっかりしていた。

「ホントごめんッ!」

 エルフェリスが慌てて窓を閉め切ると、途端にひやりとした冷気が駆け抜けて、居城内は再び闇で閉ざされた。

 太陽の熱ですら遮断してしまうガラスを前に、温まったはずの身体がにわかに肌寒さを覚えて、エルフェリスは人知れずぶるっと小さく身震いをした。

「ああ、良かった。今日は一日中デューンと添い寝しなきゃならないのかと思ったよ」

 光が遮られたのを確認してから、レイフィールは胸に手を当てて安堵の溜め息を吐いた。

「ごめんね! 久しぶりの太陽で気分良くなっちゃって……」
「まったく……あんなのが良いなんて、人間て不思議だよね」

 そう言いながらも特に怒ったわけでもなさそうなレイフィールは、にこにこ笑いながら遮光ガラスの遥か先にある太陽を見つめていた。それにつられてエルフェリスも、光と熱を失った太陽に目を移す。肉眼では直視することのできない太陽の姿が、闇色のガラスを通すと丸く、まるで夜空の月のように浮かんでいた。

「私たちにとってはなくてはならないものなんだよ。でも確かに不思議だよね。人間もヴァンプも姿かたちは同じなのに、同じ命なのに……二人はあの光で、……死んじゃうんだよね」

 ヴァンパイアにとって、太陽は裁きの炎。利得になるものなど何もない。あるとすれば……あの庭園の花々を美しく咲かせることくらいだろうか。

 いずれにしても、天気の良し悪しはあるとしても日の昇らない日などないだけに、その不自由さといったら人間のエルフェリスにはおおよそ想像も付かないものであることは間違いない。

「まあね、仕方ないよ。それと引き換えに、僕たちはずっと生きていられるんだもん。一つくらい制約がないとね」

 レイフィールはそう言うと、無邪気にカラカラと笑った。それからじっとエルフェリスを見つめて、こう言った。

「落ち込んでるんじゃないかと思ってたんだ。ね、ロイズ」

 レイフィールの問い掛けに、ずっと下を向いていたロイズハルトが顔を上げた。

 暗い回廊の中でも輝きを失わない紫暗の瞳がほんの少しだけ細められる。

「背中が丸まっていたからな」
「え……?」

 微かに微笑むロイズハルトに目を奪われたまま、エルフェリスは放心したように呟いた。

「ぬか喜びさせたんじゃないかと思って」

 そのロイズハルトの言葉に、エルフェリスはただひたすらに首をぶんぶん振った。

「そんなこと……無いよ……」

 自分の心の中を見透かされているような気がして、エルフェリスはそのあともしばらく「そんなことはない」と頭を振り続けた。

 どうして……?

 エルフェリスは思う。どうしてそこまで心配してくれるの……と。自分は聖職者で、貴方たちはヴァンパイアなのに……と。

 確かに、エリーゼが生きていると断定できる情報までたどり着けなかったことは残念ではあったけれど、それでもエルフェリスにとっては十分すぎるほどの手掛かりを得ることができたのだ。これ以上何を望むだろう。

「今まで何も手掛りがなかったんだもん。可能性の話でも聞けて良かったと思ってる。……ドールになってるかもしれないっていうのは、少しショックだったけど……」

 ドールとなる人間は、今の時代にあっても実は少なくはない。時代は移り変わっても、人は美しいヴァンパイアに魅了され続けるのだ。実際に目の前に立つ青年たちを目の当たりにすれば、ドールになる人間など愚かだと声を張り上げる者であっても納得してしまうかもしれない。

 けれど、理屈と心情はまた別物だ。血を分けた姉がドールになっていたとしたらやはりショックだし、やるせない。少なくともエルフェリスはそう考えていた。

 エリーゼは自分と同じ聖職者だったのだから。ヴァンパイアよりはむしろ、ハンターのデストロイを支持していたのだから。

「……」

 だからエルフェリスは信じられなかった。エリーゼがよりにもよって、そのヴァンパイアに惹かれたという事実に……。

「でも大丈夫。おかげで心の準備だってできるし、うん!」

 まるで自分に言い聞かせるようにエルフェリスは複雑な気持ちを押し殺すと、あえて明るくそう言って笑ってみせた。

 するとふいに、ロイズハルトの瞳がエルフェリスを捉えた。表情を動かさず、じっと見つめるだけのロイズハルト。レイフィールの肩越しからダークアメジストの瞳に射抜かれて、エルフェリスは急に胸が詰まったように息苦しくなって言葉が出せなくなった。

 ……やめてよ。
 そんな風に見ないでよ。

 落ち着かせようとしている心が音を立ててざわめく感覚に、エルフェリスはいたたまれなくなって微かにロイズハルトから視線を外した。それでもなおロイズハルトはエルフェリスを見つめている。

 そんな二人の様子に気付かないまま間に挟まれたレイフィールは、彼なりに気を使ったのだろう。明るく声を弾ませてこう言った。

「でもさ、デューンには悪いけど、あの情報はガセだった方が絶対良いよ」
「え? なんで……」

 彼の笑顔と言葉の意味が分からずに、エルフェリスは思わず口を開けたままポカンとしてしまった。ガセだった方が良いということはつまり……そのドールがエリーゼでなければ良いということだろうか?

「どうして……そんな?」

 分からない。
 分からない。
 混乱する。
 これ以上、私を混乱させないで。

 そう思いながらもエルフェリスは平静を装って、無機質な笑顔を取り繕った。

「だってさ? ルイは本当にシャレにならないくらいドール持ってるしさ、それにお気に入りなんかになったら命が……――フガッ!」

 レイフィールの言葉はそこで途切れた。それまで黙って話を聞いていたロイズハルトが突然、レイフィールの口をその手で塞いだのだ。

「フガーッ! フガーーッ! はにふんはほほいふ何すんだよロイズっ」

 不意打ちを喰らったレイフィールが、ロイズハルトの手の中で暴れる。けれどロイズハルトの手は、しっかりとレイフィールを押さえ込んで放さなかった。

「余計なことは言わなくていい! エルも……何でもないから気にするな」
「え? う……うん」

 気にするなと言われる方が人間は気にする生き物なのだが……と思いつつも、レイフィールの言おうとした言葉の先は、ロイズハルトによって失われてしまった。だが、レイフィールは確かに何か“気になること”を言おうとしていた。

 ――ルイのお気に入りなんかになったら……命が……?

 その後は一体どうなるというのだろう。忘れろと言われたあのセリフが、それ以降エルフェリスの頭の中でグルグルと回り続けた。

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