「あら、おかえりなさいませ。エルフェリス様」
二人と別れたエルフェリスが自室のドアをゆっくり開けると、窓辺に置かれたテーブルの縁に腰掛けてティーカップを傾けるリーディアに声を掛けられた。
「あれ? まだ寝てないの?」
「お帰りをお待ちしておりましたの」
リーディアはそう言うと、きれいなオリーブ色の両目を細めて立ち上がった。ハイブリッドであるリーディアの瞳は、夜間は片目が真っ赤に染まるが、今は太陽が出ている時分のため、彼女が生まれもっている本来の色を湛えていた。
「先に寝てて良かったのに……」
「お話しなければならないことがあったのですわ。とにかくお掛けになって?」
そう言うと、リーディアは手早くもう一つのカップを用意しながら、エルフェリスにテーブルの向かいの席に着くよう勧めた。
湯気の立ち上るティーポットから、新たな紅茶が二つのカップに注がれる中を、エルフェリスはリーディアの誘いに従って、指し示された席にゆっくりと腰掛けた。それと同時、絶妙のタイミングでリーディアは淹れたばかりの紅茶をエルフェリスへと差し出した。
「わざわざ改まって何の話?」
ありがとう、とリーディアに声を掛けてから、エルフェリスは熱い紅茶の入ったカップに指を滑らせると、それを口元へと運んだ。微かに甘い果実の香りがする。
リーディアも同様に一口紅茶を飲むと、ふっと小さく息を吐いた。そしてこう切り出したのだ。
「先ほど、ロイズ様の使いだというハイブリッドの男がこの部屋を訪れましたの」
「使い? ロイズの? さっきまでロイズとは一緒にいたよ? わざわざ何だろう」
「実は、これを預かったのですわ」
リーディアはそう言うと、自らのスカートのポケットに手を入れて、中から一通の封筒を取り出した。
赤地に黒の文字。三者会議の開催を知らせるあの手紙と同じ色だった。
「中身は確認しておりませんが……宛名の文字を見る限りではロイズ様の筆跡に間違いありません」
「宛名?」
エルフェリスは不可思議な展開に訝しみながらも、ロイズハルトからだというその手紙を受け取ると、リーディアの言う宛名や筆跡とやらを確認しようと封筒を表に返して見た。そこには確かに、流れるような美しい文字でエルフェリスの名前が表記されていた。もしかしたら届ける相手を間違えているのかもしれないとも思ったのだが、どうやらそうではないらしい。
ロイズハルトの書く文字を実際に見たことはないが、これは明らかに自分に向けてしたためられたものであることだけは間違いなさそうだ。
「エルフェリスって書いてあるね。何だろう、ホントに」
「使者は大きな声では言えない内容なだけに、公言はするなと申していましたわ」
「……とにかく開けてみよう」
妙な胸騒ぎがした。
――公言するな?
それはレイフィールやデューンヴァイスにも言えないようなことなのだろうかと、エルフェリスは首を捻る。
そうでないのなら、先ほどあの場で何らかのアプローチがあったはずだが、しかしそのような素振りはまったくと言っていいほど見受けられなかった。エリーゼの行方に期待して、そして落胆した自分を気にかけてくれはしたが、それ以外にも何か彼には目的があったのだろうか。
エルフェリスはやや乱暴に封をちぎると、取り出した手紙を広げてさっと目を通した。それをリーディアが心配そうな面持ちで見守っている。
「何て書いてありました?」
「……次の新月の零時、庭園城門を出た先にある泉に来いって。リーディアも同行せよ、って書いてあるよ」
「私も?」
「うん、そう書いてある。ほら」
若干驚いた様子のリーディアに、エルフェリスはロイズハルトの手紙を見せてやった。それに素早く目を通すと、リーディアは口元に手を当てて息を呑んだ。
「本当ですわ……」
食い入るように文面を眺めたまま、リーディアが呟く。リーディアはまるでそこに信じられないものを見たかのように絶句し、そしてエルフェリスの目から見ても明らかなほどに動揺している様子だった。確かに隔離された自室ではなく、城外へわざわざ呼び出すというのは気にかかるものの、ロイズハルトの命令にそれほどの衝撃があるものなのだろうか。
ただ指定された時間に、指定された場所へ行けば良いだけでは、とのん気に考えるエルフェリスの横で、リーディアは何やら難しい顔をしたまま押し黙ってしまった。考え事をしているのか、しきりに目線があちらこちらへと動いている。
エルフェリスはリーディアの驚愕ぶりに何か事情ありそうだと勘ぐってはみたものの、ロイズハルトやリーディアとはまだ付き合いが浅い。考えたところで思い当たる節などないことに気が付いて、早々に思案するのを諦めた。
だが、どちらにしてもリーディアの驚きようは普通ではない。とりあえずエルフェリスはまず、手紙に書いてあった場所について尋ねてみることにした。
「その泉ってどういうところなの?」
はっきり言って、エルフェリスはこの居城以外の領域についてはまったく知識がなかった。この城が地図上のどこに位置して、どのような地形の場所に建っているのかすら知らないのだ。
世界の半分は人間の土地で、世界のもう半分はヴァンパイアたちが支配していると言われてはいるが、遥か昔から今に至るまで、正確な大地の果てを記した地図は少なくとも人間側には存在しない。記したくとも、いつの時代もヴァンパイアの存在がそれを阻害しているのだ。
人間からすれば、測量のためにヴァンパイアの領域を歩き回るなど自殺行為にも等しく、もちろんヴァンパイア側からの情報提供もあるはずもないので、ある程度から先の地形は詳細不明として扱われるのが常だった。ハンターたちならば、或いは独自のものを所持しているのかもしれないが、いずれにしてもエルフェリスら神官たちの目に触れることはない代物だろう。
だからただ簡潔に庭園城門の先の泉と言われても、エルフェリスはきっと一人では辿り着けない。だからリーディアを伴って訪れるように、と指示がされているのだろうか。
そんな風に思っていると、リーディアは己の身に太陽の光を浴びないようカーテンの影に隠れながら窓を開けると、庭園のさらに先にあるひとつの城門を指差した。
「ほら、あそこにあるのが庭園城門と呼ばれる門の一つですわ。その先に森が見えますでしょ? この手紙の中でロイズ様が指定された泉はその中にありますの。とても静かな場所で、この城からもさほど遠くはありません」
「じゃあ、リーディアもよく行くの?」
「ええ、私はわりと……。でもなぜかしら……ロイズ様があのような場所を選ぶなんて……」
「もしかして……いわく付きの場所? おばけが出るとか?」
怪訝そうな顔を見せるリーディアに、エルフェリスは少しの不安を感じて聞き返した。リーディアはそんなエルフェリスの表情を一瞥すると、小さく首を振って少しだけ微笑み返した。
「いえ、そういうわけではないのですけれど、数年ほど前からロイズ様はあの泉にぱったりと近付かなくなったものですから……」
「え? 近いのに一回も?」
「ええ、なぜか泉だけは頑なに拒まれますの。以前はよく足を運んでいらっしゃっただけに不思議で……」
だからリーディアはあんなにも驚いていたのか、とエルフェリスも内心頷いた。でもそんな場所に自分と彼女を呼び出して、ロイズハルトは一体どうしようというのか。疑念はますます深まるばかりだ。
「……どう思う? リーディア」
「どうって……」
言葉が足りなすぎたのか、リーディアが首を傾げた。それに対してエルフェリスは直球の疑問を投げかけた。
「この手紙だよ。これ本当にロイズが出した物かな」
「でも文字は確かにロイズ様の物だと思いますし……まあ疑わしい所は多々ありますけれど」
長年ロイズハルトの元でロイズハルトを見てきたリーディアが考えあぐねているところを見ると、一概にロイズハルトの手紙ではないとも言い切れず、エルフェリスも一緒にどうしたものかと悩んだ。
文字だけで見れば、ロイズハルトのそれだと断定できるかもしれない。だが、内容はいかに付き合いがまだ始まったばかりのエルフェリスとて首を傾げるほど、ロイズハルトとは程遠いような気もする。
リーディアも同じことを思っていたようだが、彼女の中では「文字」というロイズハルトを示すヒントが与えられているだけに混乱を極めているようであった。まったくもって、真意が読めない。
「次の新月っていつだっけ?」
こんがらがった頭を一度整理しようと、エルフェリスは再び手紙に目を落とすと、そのままの状態でリーディアに尋ねた。するとリーディアはしばらく考えてから、確か明後日ではないか、と答える。
「明後日の晩……じゃあそれまでにロイズに会って聞いてみよう」
そう提案したエルフェリスにリーディアも同意を示し、頷いた。
「そうですわね。それが一番確かですわ。城の外は一歩出れば様々なヴァンパイアがうろついておりますし、エルフェリス様にとっては危険なエリアに違いありません。ご自分の身を守る為にもそのようになさいませ」
リーディアの忠告に、エルフェリスも元気良く頷く。
もとよりそのつもりだった。ここはあくまでも自分とは異なる種族の暮らす城で、しかもその種族はエルフェリスら人間を喰らう魔物である。そしてその主たちも同様に、人間とは異なる生き物なのだ。
十分に用心するに越したことはない。
エルフェリスは改めて覚悟を決めるとともに、自分に対する戒めも見直さねばならないなと、そう考えていた。この時呼び起こされた心のシグナルは、すでに迫り来る危険を察知していたに違いない。
だが結局、手紙で指定された晩までにロイズハルトに会うことはできなかった。
ロイズハルトの行方をデューンヴァイスやレイフィールに尋ねる際も、彼らにそれとなく手紙の内容に通ずるような事がなかったか聞いてみたりもしたが、やはり何も手掛かりは得られないまま時間は過ぎていった。公言するなと釘を刺されている以上、逆に不審に思われて何かを悟られても困るため、言葉を慎重に選んだのがいけなかったのだろうか。
デューンヴァイスやレイフィールの話によると、ロイズハルトは辺境で起こったトラブルを片付けるために、エルフェリスが最後に会ったあの日以降城を離れているらしい。戻る日なども聞いてはみたが、元々どうなるか分からないものの後始末だけに未定だ、と言われてしまった。
急に入り込んだ仕事だとは言っていたが、そのような状況の中、わざわざ使者まで寄越して日時まで指定するような約束事を交わそうとするだろうか。デューンヴァイスならいざ知らず、ロイズハルトならば約束を反故にするくらいならば伝言の一つでも残していきそうなものなのだが。
やはり、これは……。
時を追うごとに湧き上がり、膨らんでいく疑念をついにエルフェリスは押し殺すことができなかった。
刻一刻と空が闇に染まり始め、時計の針が次第にその距離を縮めていった。
月が完全に姿を隠した今宵の空には、普段は見ることのできない星々が代わりに道しるべとなるべく煌めいていた。
エルフェリスはじっと外を眺めながら、静かに覚悟を決めていた。あの手紙の差出人がロイズハルトであろうとなかろうと、とりあえずはあの泉へ赴いてみよう、と。その先のことは、その場で考えれば良い。
もし何か事が起ころうものならば、その時こそエルフェリスが神聖魔法使いであることを思い知らせる良いチャンスとなるだろう。
「エルフェリス様、参りますか?」
後ろでじっと控えていたリーディアが遠慮がちに声を掛けてきた。いつもよりもわずかに鋭いその声に、彼女もやはり平静ではいられないのだと思い知る。
それでも、無言で振り返ったエルフェリスは決意を込めた瞳で一回だけ頷いた。
「行こう、リーディア。面倒かけるけど、ごめんね」
「何を水臭いことを……」
リーディアはそう言うと、いつもの笑顔で笑った。
ドレスを脱ぎ捨てた彼女は全体的にほっそりとしたシルエットの衣装に身を包んでいた。余分な装飾を極限まで減らした草色のシャツに、美しい身体のラインを描き出す黒い細身のパンツを身に着け、膝上までをカバーできる赤茶色のブーツを履いている。長い髪は一つにまとめて後頭部で括られており、あとはそのまま背中に流されていた。
動きやすそうだね、とエルフェリスがちらちら見ていると、リーディアはにっこり微笑んだまま「戦闘服ですわ」とあっさり言い放った。
「せ……戦闘服って」
「あら、私たちの間では普段着のようなものですのよ。城から一歩出ればハンターもうろついていますから気も抜けませんしね」
「……ハンターか……」
その言葉と共にエルフェリスの脳裏に浮かんだのは、不敵に笑うデストロイの姿だった。あの男はいつも、狩りの時は決まって長期に渡りヴァンパイアの領域に篭っていたはずだ。けれどいまだに住処には辿り着いたことがないとしきりに悔しがっていたものだが、もし彼がこの城を発見してしまったらどうなるのだろう、とエルフェリスはふと思った。
なぜか、ロイズハルトの顔が浮かんで消える。
「ねえリーディア。一つだけ……聞いてもいい?」
「ええ、何なりと」
「あのさ、もしこの城にハンターが紛れ込んだりしたら……どうするの?」
真顔で尋ねたエルフェリスをじっと見つめたまま、リーディアはエルフェリスの次の言葉を待った。
「つまりさ、ハンターがうろついてるってことは、いつかは城に侵入されちゃうかもしれないってことでしょ?」
リーディアが答えないのは質問の仕方が悪かったのかと思って、エルフェリスが再度言い方を変えて聞き直すと、リーディアはくすくすと微笑んで、何度か首を横に振った。
「それはまずあり得ませんわ」
そして自信に満ちた表情でそう言ったのだ。
「どうして?」
「この城とその周囲にはハンター避けの魔法が掛けられているというお話は致しましたよね。私は実際に蚊帳の外の立場になったことがないものですから、うまく説明はできないのですけど、魔法の効力はかなりの広範囲に広がっていて、力のあるヴァンプに正式に招待された者以外にはこの城すら見えないと言われています。ハンターだけで城を特定することは不可能だと思いますわ」
「そうなんだ」
「エルフェリス様もいつか故郷にお戻りになった時は、くれぐれも内密にして下さいませね。まぁ、一度出てしまえば……許可が下りない限りはエルフェリス様にもこの城は見えなくなってしまうと思うのですけど」
「うん……気をつける」
二人は連れ立って部屋を出ると、なるべく音を立てないようにドアを閉めた。そしていつもよりしっかりと施錠を確認すると、エルフェリスとリーディアは暗い暗い回廊を肩を並べて歩き出した。
背後に迫る黒い影に気付きもせずに。
城内から臨む外の世界は、まるで別の様相を醸し出していた。今立っている薔薇の庭園城門は暗いとはいっても、ところどころ街灯が点いてるし、また壁にまで蔦を絡ませて咲き乱れる白い花びらのおかげで、闇の中にも華やかな雰囲気が漂っていた。
けれども城門の外はどうだ。一面を不気味なまでに木々が覆い、夜目が利かない人間のエルフェリスにとっては、とてつもないほどの暗闇となって目の前に立ちはだかっている。
「参考までにお伝えしておきますわ。ロイズ様はいまだ外出からお戻りではないとのこと。やはりエルフェリス様の言う通り、あの手紙は罠のようですわ」
城門の鉄扉に手を伸ばすリーディアが、謎の言霊を呟きながらそう言った。ギギィと重い響きを伴って、ゆっくりゆっくり門扉が開いていく。
「あえて行かないという手もありますのよ?」
リーディアの言葉は警告の意を含んでいた。もし仮にロイズハルトの呼び出しであったとしても、後から適当な理由を付けてごまかすことなどいくらでもできるのだから、誘いを無視することもできるのだとリーディアは言っているのだ。
けれど別の何者かが故意にロイズハルトの名を騙っているのだとしたら、恐らくはまた形を変えてエルフェリスらと接触を持とうとするだろう。
ならば今ここで、この目で直に確認すれば、自分の中で燻り続けることもないと、エルフェリスはリーディアに強い眼差しのまま微笑んだ。
「ううん、行く。“ロイズハルト”の話を聞きに」
エルフェリスはそう言って、密かに忍ばせておいたワンドを取り出すと、それをしっかりと握り締めた。これがあれば闇を切り裂く神聖魔法を瞬時に発動できる上、エルフェリス自身にかかる魔力の負担もかなり軽減できる。
つまりは、エルフェリスなりの戦闘装備というところだ。
「道案内お願い。リーディア」
そう言いながら、うっそうと茂る木々の間へと足を踏み出す。
長い長い夜の始まりだった。