【残036話】聖なる血の裁き(2)

「……な……ッ」

 エルフェリスは驚愕きょうがくのあまり絶句した。

 初めて見る男だった。すらりとした長身に、長く伸びた髪の毛を風になびかせ、まるで先ほどからそこにいたかのようにごく自然に、笑みを浮かべて立っていた。

 少しばかり骨ばった顔が印象的ではあったものの、大衆の中にあれば人目を惹くような華やかさを感じる男。だがやはり片目は赤く染まっている――ハイブリッドのようだ。

「あなた……確かヘヴンリーの……」

 その男の姿を認めた途端、いつもよりも険しい表情のリーディアがそう呟くのが聞こえた。

「あなたが私たちを呼び出したの?」
「いかにも」

 リーディアの問いかけに、にやりと顔を歪めて男が笑った。なぜかエルフェリスの方を向いて。

 ぞくっと背筋が寒くなるような嫌な笑顔。けれどエルフェリスは、その顔を一瞬しか見ることができなかった。

「エルフェリス様ッ!」

 空気を切り裂くようなリーディアの絶叫も、どうしてかよく聞こえなかった。

 気が付くと、エルフェリスの身体は泉の中に埋もれていた。たった今の今までこの足で大地に立っていたというのに。それも泉からは距離を置いて。

 それなのに、次の瞬間には水の中に沈んでいた。

 どうしてなのか理解できなかったが、その間にも身体が欠如した酸素を欲し始める。

 息が苦しくなって、ともかく水面を目指してエルフェリスは必死にもがいた。水深がそれほど深くなかったことは幸いだったが、しっかりと水気を含んだ衣服が上昇しようとするエルフェリスの邪魔をする。

「ぷはッ!」

 ようやくの思いで水上に顔を出すと、先ほどまで自分がいた場所には無数の男たちが泉の岸を取り囲むようにして並んでいた。

「なに……っ!」

 いつの間に?

 首から下を水に沈めたまま、エルフェリスはその異様な光景に息を飲んだ。

 だが、驚愕きょうがくはそれだけでは終わらない。

 震えるエルフェリスにさらに追い討ちをかけるかのように、その集団の隙間から傷だらけで崩れ落ちるリーディアの姿が目に入ったのだ。

 一体何が起こっているのだ。慌てて陸上にい上がろうと下肢かしに力を込めて水を蹴り、エルフェリスが一番近くの岸に手を掛けた瞬間、先ほどの赤目の男がその手を容赦なく踏み付けた。

「何すんのよッ!」

 痛みをこらえつつも、エルフェリスは声を張り上げて男を睨んだ。

 すると男はきれいな顔を歪めるように笑って、後ろに控える男たちに何やら首だけで合図を送ると、それに合わせて数人の男たちがエルフェリスの死角となる位置から何かを泉の中へと投げ込んだ。激しい水飛沫みずしぶきを上げて、水面が揺れる。

 それと同時に男たちからは歓声が沸き起こった。そしてエルフェリスはすぐにそれが何なのかを理解した。

「リーディアッ!」

 泥と傷まみれになったリーディアが泉の中に投げ込まれたのだ。ひどく負傷しているのだろうか。沈みゆく体が抵抗しようとしない。

「リーディア!」

 すぐにでも彼女の元へ行こうと身体が勝手に動いたが、楽しそうな表情を浮かべて手を踏み付ける男の足が、それを阻むかのように力を加えてくる。歓声と笑い声が上がる中を、粉々に砕けてしまいそうなほどの激痛にエルフェリスは思わず顔をしかめた。

 だが、そんなことを言っている場合ではない。

 折れてもいい。リーディアを助けなければ、とエルフェリスは何とかこの場を乗り切るために考えを巡らせようとして、忙しなく視線を走らせた。

 そこで気付いた。

 幸い水面に沈めたままのもう片方の手には、しっかりとワンドが握られたままだったのだ。

 魔法を使うためにはある程度詠唱えいしょうするための猶予ゆうよや敵との間合いが必要だが、武器として使用する分にはそのようなものは関係ない。男たちに気付かれないよう視線だけを動かしてそれをもう一度確認すると、エルフェリスは勢いよくワンドを赤目の男めがけて振り上げた。

 不意を突かれた男の身体に大量の水が降り注ぎ、一瞬手を踏みつける力が弱まった。その隙を見計らってエルフェリスは男の足を全力で振り払うと、一目散に泉の中へと取って返してリーディアの元へと向かった。

 彼女を飲み込んだ水面がわずかに赤く染まっている。ためらう暇などなかった。

 とにかく吸い込めるだけの空気を吸い込んで、勢いよく暗い水中に潜る。と、すぐにリーディアの白い腕が視界の向こうに入った。

 投げ込まれたときに巻き上げられた砂と、リーディアの血が混ざって水をにごらせてはいたものの、元来の泉の透明度が高いのが幸いして、姿を見失うことなくリーディアの元までたどり着けそうだった。

 助けを求めるように伸びるリーディアの腕に向かって、冷たい水の中、エルフェリスは肢体したいにいっそうの力を込める。潜れば潜るほど身体は重くなっていったが、それでも何とかリーディアの腕をつかむと、それにより覚醒したリーディアの口から大量の気泡が溢れて水の中に溶けていった。

 エルフェリスは急いでリーディアの体を抱え込み、渾身の力で水を蹴ると、無我夢中で水面を目指した。

 上へ上へともがく中、何かが足に絡み付く感覚に襲われたが、構わず一気に上昇すると、男たちがいない側の岸まで泳いで二人で陸にい上がった。

 空気に触れた途端、リーディアは激しく咳き込んで何度も水を吐き出す。その様子を対岸の男たちはにやにや笑いながら眺めている。

「何のつもりよ、あんたたち……」

 リーディアの背中をさすりながら、エルフェリスは精一杯の侮蔑ぶべつを込めた目を男たちに向けた。

 髪や衣服がべったりと体に張り付いて不快だったが、体力の大部分を水中で消費してしまったエルフェリスにはそれを払い除ける力すら惜しく、なるべくならワンドの力を借りることなく温存しておきたかった。

 本当の戦いは、多分これから始まるのだ。

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